吉本ばなな著 「違うこと」をしないこと
、を読んで感じたことをここに書いていきます。
生きていると感じる時はどんな時でしょうか?
死にたいと感じる時はどんな時でしょうか?
誰しも、生きていれば、何かを感じて生きているー。
嬉しいとか、絶望とか、ワクワクとか、苦しいとか、ドキドキとか、悲しいとか、ソワソワとか、希望とか、美しいとか、好きだとか、怒りか、、、。
それら、既存のどの言葉にも、当てはまらないようなものを感じることもある。でも、確かにそこに存在している。
それを音楽の言葉でいうと、グルーヴというのだろうか。
(グルーヴとはある種の高揚感を指す言葉、定義はない)
科学的なところで言えば、「10%HUMAN」という本に、こう記されている。
チャールズダーウィンは著書「人及び動物の表情」に、消化管の分泌液が感情の影響を強く受ける様子は、消化管にある、感覚器が直接作動していることを示しており、それは意志によってどうにかできるものでは無い。
これは悪い知らせを聞くと腹が下るのを感じたり、寝坊をすると胃がひっくり返る感じがしたり、恋に落ちると胸が締め付けられるような感じがしたりすること。脳と腸は離れた場所にあるが、深くで繋がっている。
そう、僕たちは、考えるより先に感じている。
順番にしてみると、
六感で体内に入れる➡︎感じる➡︎思考
こんな感じ。
だから、試合前の緊張感や、何の希望も感じられない絶望感などを、大切にしたいし、認めてあげたい。これは、本来の僕自身の反応であるから。
だから、結構クソだなと自分でも思うけど、直感がそういうなら従うかみたいなことも多い。なかなか、迷惑なやつだとは思う。でも、それは決して間違ってはいない。
なぜなら、今こうして幸せであるからーーー。
全てが必要だったってこと。
でも、生きていく中で、「これ何かちゃうな」とか、「これいけそう」とか、「これ嫌やな」とか、感じても、周りの雑音に支配されたり、ノイズに耳を奪われたりして、自分の心の声が聞けなくなってしまうこともある。
そんな時こそ、自分の感じたものを大切にして欲しい。
たとえば、僕は直感的に人を判断する。もう一つ踏み込めば、目を見て判断する。生き様は目に宿ると信じているから。人は見た目じゃないというが、
目だけは嘘をつかない。しかも、これまで目を見た最初の印象とその人の人格はだいたい当たっているから。
人は、そういった直感的に人を判断するアンテナや、ここぞというときに判断するアンテナが元々備わっている。
だから、何度も言うが、些細な心の声でも、無視しないで、押し殺さないで、耳を傾けてあげて欲しい。自分を大切にして欲しい。認めてあげてほい。
最近、こういったことに、気がつき始めて、自己認識(自己の再認識)ができてきて、より自分の事をしれて、俺はこんな奴やったんかと、絶望もしたし、孤独も感じたし、生き辛さも感じた。
でも、自分に正直に幸せに生きるには、この作業が必要である。
こんな感じで、吉本ばななさんの本を読んで、僕は直感とか、衝動とか、何か大きな流れみたいなものを信じているし、大切にしていると改めて感じた。
だから、何でもいいし、クソになってもいいから、生きてる事を感じ続けていたい。