見出し画像

第1回 私が少林寺拳法を始めた理由

誰にでもある物事の始まりの話、最初の3行が結論の全てです。ただし、始まりは二度目があった。


1996年少林寺拳法入門

そんなもの、父が少林寺拳法の先生だったからに決まっているだろう!小学1年生の私は、3つ上の兄と共に、気づいたら道場に通っていた。

ある日は、母親の車で、ある日は、琴平駅から電車に揺られ、そして駅から徒歩で道場へと通った。

その道場は、本部道院といい、少林寺拳法始まりの道場であった。香川県多度津町郵便局の裏手にあり、旧道場と親しまれた建物だった。

米蔵を買い取った少林寺拳法の創始者が道場として改築したもので、今は建て替えられて、新しい道場となっている。旧道場は、立派な赤門と重厚な黒い鉄扉、そして、中に入ると汗の染み付いたような、お香も混じり合ったような独特の香りが漂う神聖な空間でした。エアサロンパスの匂いも少し混じって、男臭い部室という感じ。匂いと記憶を司どる場所は近いようで、匂いのイメージが強い。

練習となると、私は、ふざけまわって、真面目にした覚えがほとんどない。当時の副道院長に捕まえられて、全身を泣き笑い疲れるくらい、こそばされた記憶しかないくらいだ。全くもって不真面目な問題児だった。兄と喧嘩したり、周りにとって、どんだけ迷惑だっただろうことか。

一方で、夏のBBQ、川遊び、瀬戸内海の島での合宿、海遊び、冬のスキー、だるま祭やら、イベントが楽しくてしかたなかった。子供はそういうことばかり覚えているものである。

本部道院は、月・水・金 週3回 夕方から修練。
香川県&子供の感覚としては、琴平と多度津、車で30分は、かなりの遠方だ。見たいアニメ「ドラゴンボールGT」も見れない。月・金で通っていた公文式とも被るしで、2年ももたず、6級で休眠することとなる。また、父も道場の日の帰りは、自分達が寝た後だった。。。

スポーツ一家な話 卓球から野球へ 

3年生になる頃には、祖母や母がやっていた卓球に、兄と共に転向する。
母親からしたら、自分もやってる趣味の卓球に連れて行くのだから、まあ送迎の負担はまだ楽だ。自宅敷地内に、祖母が建ててくれた卓球場があり、夜そこで練習することもたびたびであった。

3年生の時には、県予選2名出場中2名の枠があり、全国大会にも出ることができた。
1学年上で、当時、人気者だった泣き虫愛ちゃんこと、福原 愛さんも出場していたそうだ。全国大会デビューの卓球は、初戦早々に負けた後、さらに初代デジモンに夢中な私は、知らない小学生と対戦、そちらも負けて、育てたデジモン(グレイモン)が死んで大変なショックをうけるという悲しい記憶が刻まれた大会だった。どっちの対戦が主やねん!!

1998年 横浜ベイスターズが優勝した。セリーグ優勝シーンは、母親が出場する卓球大会の会場ロビーで見ていた。そして、私は、ゲームのパワフルプロ野球にハマり、当時、校庭に集まって遊びでやっていた野球にもハマり、徐々に、それだけでは満足できなくなるのであった。
1学年上の友達の誘いもあり、5年生の後半になる頃、決心して、少年野球のチームに入ることになる。そこから約7年間、野球の道へ進むのであった。

誘ってくれた1つ上の先輩は「センス◎」でチームは、少年野球でも優勝したり、中学の部活でも県予選に出たり、強くて楽しかった。また中学生の時には、部活だけでなく、週末は硬式のクラブチームも掛け持ちするほどはまり、夢中で球を捕る。投げる。打つ。

自分でやりたいと選択した最初のスポーツだったからだろう。心から熱中できるものに出会えた喜びを知った。高校時代は、実家を出て寮生活だった。今思うと贅沢な、有難い環境であった。レギュラーとして県ベスト8など、そこそこの成績だった。しかし、個人的に最後の夏は、直前の怪我に泣き、力を出し切れない歯痒さ、涙も流せない悔しさがあった。不完全燃焼感が残る、ラストイヤーだったのかもしれない。

熱中できる何かを求めて

最後の最後の何か物足らなさ、不完全燃焼感をもった野球人生。
野球と母校、観音寺第一高校のお陰で、明治大学へ指定校推薦を得た私は、明治大学を調べた。山P、北川景子、井上真央、有名な芸能人が通う東京の大学ということで、田舎もんの私は、浮かれていた。でも、何か熱中できる活動を求めていた。

観音寺から琴平へ帰る、車中で、父親にこう聞いたことを覚えている。

「明治大学って少林寺拳法部ってあるの?強い?」

父親の答えは、「あるよ。大学少林寺として昔からある伝統校」

そんな答えだった。高校3年生卒業間際、本部合宿に明治大学が来てるから、挨拶せよということで、ちょいと顔を出したら、先輩方が会ってくれたのを覚えてる。なにやら楽しそうな雰囲気だ。上京したら、少林寺拳法部に入ろうと心の中でそう決めた瞬間だった。

上京して最初に住んだのは、港区田町にある香川県人寮だった。すぐ近くには、ラーメン二郎本店がある。実は、この香川県人寮もまた、少林寺拳法ゆかりの地で、東京最初の普及拠点であったことを後々に知る。

大学生の少林寺拳法

明治大学の少林寺拳法部は、週5回、木曜と日曜以外、平日は、夕方17時〜22時まで、土曜は、9時〜13時くらいまであって、ほぼ休まずに部活に参加していた。当時は、見習い白帯の次が、即、3級茶帯、2年生の夏前には、初段となっていた。

体力にはそこそこ自信があったが、野球に使う筋肉が違うためか、練習の最後に行うミット蹴100本3セットがかなりきつかった。夏合宿は、洗礼でもあり、走り込んだり、宿で雑務をこなしたり、心身ともにヘトヘトになったことも良い思い出だ。他には、2年の時、Perfumeのライブに行くため、練習をサボった時には、先輩にバレて、拳立てを一時間くらいやらされたり。。。笑 
気が抜けてるということで、自主的に坊主になったり。いろいろあった。

いわゆる学生連盟という少林寺拳法の大会運営を行う学生の自治組織に入ったのは、2年生になる直前ごろであった。学連は、会議と飲み会が必ずセットであった。他大学にたくさん知り合いが増えていく、そういうグルーブ感があり、賑やかな集まりであった。

海外の少林寺拳法 井の中の蛙、大海を知る

学連OB繋がりで、神奈川の先生方と学生連盟数名にて、インドネシア合宿に参加した!同じ茶帯でもキャリアが長い、同世代のインドネシア拳士のキレのある動きに刺激を受けた。

日本の武道だけど、インドネシアのレベルが非常に高くいずれは、逆転されるのではないか。首都の街並み、人の活気など、国力・経済力も含めて、ポテンシャルの高さを感じた。

帰国したら負けないように、頑張ろう。合掌礼一つで、拳をかわして、仲間になれる少林寺拳法の魅力を大学2年生にして、体感できたことが、人生に大きな大きな影響を与えてくれた。

その後、ヨーロッパやアメリカ、海外の少林寺拳法の拳士たちとの交流の機会が海外や本部の国際講習会等であり、いつも思うのは、その熱量の高さである。

日本の文化や少林寺拳法に対するリスペクトと勉強量をいつも実感させられ、日本人がこれに気づかない、関心を持たない、文化を継承をしないことは、とても勿体無いと感じている。

ですから、より多くの日本人の方に、どんな入口でも良いので、少林寺拳法の輪の中に飛び込んできて欲しいと考え、また巻き込める渦を作りたいというのが、私のモチベーションであり、ライフワーク(使命)と思っている。

みなそれぞれに入門や継続の動機があり、どんな人にもできるだけ聞くようにしている。なぜなら、相手を理解する大きなヒントがあるから。

まずは自分からということで自己開示の第1回目は、少林寺拳法との最初の出会い、学生時代の再開についてまとめてみた。

いいなと思ったら応援しよう!