包まれる

「こんばんは10時のニュースです。」
いつものように、いつものキャスターが、いつもの調子で、たんたんとニュース原稿を読んでいる。
多分彼はもう20年以上、ニュースを読んでいるのだろう。
本当にいつもかわらない。

僕は、そんな彼の言葉をいつものように、聞いていると言えば聞いているし、聞いていないと言えば聞いていない感じで、何となく聞いている。

「今日最初のニュースは、近金首相の動向からです。
 首相は、衆議院の予算委員会の席で、労働関連法案について、労働者の週最大勤務時間について言及し、現在よりもさらに削減して週25時間とする意向を表明しました。」
何故か、このフレーズはハッキリと聞いていた。
しかし、その後に話された言葉は上手くキャッチすることができずに、いつものように、聞くでもなく
聞いていた。

しばらくいつものように時が流れたが、そのときいつものキャスターは、いつもと全く違う声をあげた。
「ちょっとお待ちください。」
僕はいつもと違う彼の声に画面に吸い寄せられた。
数秒、沈黙が広がる。
そして、今度は突拍子もない声を上げた。
「いま霧が出てきました。
 霧です。
 濃い霧です。
 お待ち下さい。
 霧です。」

僕は訳が分からなかった。
だってそうだ。
彼は「霧」が出たと言ったのだ。
霧の何がどうだというのだ。
霧なんてちょっと山にでも登ればしょっちゅうみることができるものではないか。
と考えたところで、はたと疑問を感じた。
彼が話しているのはスタジオの中ではないのか? ということだ。
スタジオの中に霧が出たのか?
それは、演出効果を狙ってスモークでもたいたのではないのか?

そんなことを考えていると、彼が再び話し始めた。
「霧に包まれています。
 先程のニュースが。
 霧に包まれています。」
先ほどのニュースとは、何のニュースなのだろう。
すると彼は「このニュースです。プロ野球のニュース、川崎ゼッツ対尼崎ロッズの結果が変わりました。先程は、7対2で川崎の勝ちとお伝えしましたが、霧に包まれて勝敗が不明となりました。この結果勝率で尼崎が昨日まで首位の有馬温泉を抜いて首位に立ちました。」と言った。

全く、僕は耳を疑った。
霧に包まれて事実が変わるなどと言うことがあり得るのか?
そんなことは聞いたことがない。
確かに「霧に包まれる」という言い方はある。
意味内容が分かりにくくなるときに使う言い方だ。
しかし、すでに出ている事実が「霧に包まれて」変わってしまうなんて言うことはあるはずがない。
生まれてこの方35年間、そんなことがあるという話は聞いたことが無い。
それなのに彼はテレビという公共の財産を使って、あり得ないことを堂々と話したのだ。
しかもテレビ局では一切訂正等されないのだ。
どういうテレビ局なのだ?
リテラシーというものはないのか?
そう思った僕は閃いた。
そうだ、きっと他のメディアでは、こんなことは言っていないはずだ。
そう思って僕はチャンネルを変えた。
しかし、他にはニュースをやっている局はなかった。
ニュースはこのチャンネルだけだった。
そうだ、ネットだ。
ネットなら結果が出ている。
パソコンを開いてウェブブラウダーを立ち上げた。
そして、僕はプロ野球の結果を出すサイトをタップした。
「これを見れば、どれだけあのニュースがへんてこりんだったかわかる」
僕はそう思ってタップした。
次の瞬間、僕は愕然とした。
そこには「川崎対尼崎 勝敗不明」とある。
なんだこれは。
こんなことはあるのか。
そもそも勝敗不明とはなんなのだ。
勝敗がつかないということはある。
だが、勝敗が不明とは、江戸時代ではあるまいし、勝敗はリアルタイムでわかるだろう。
それに、誰かが見ているはずだ。
仮に観客がいないとしても試合をしている本人たちはわかっているはずだ。
勝敗はどちらかが勝つか引き分けかのいずれかしかないではないか。
他のサイトで確認しようか、いやサイトではないSNSで確認するべきだ。
SNSなら試合をした本人たちに連絡がつくかもしれない。
僕はSNSに投稿した。
「今日の川崎対尼崎勝敗しってる?」
しばらくして続々とコメントがついた。
僕の発信にこんなにコメントが付いたのは初めてだ。
どれも同じコメントだ」
「不明」
それだけだ。
「不明」
「不明」
何がわからないのだ?
一体なにが?

「ここで新たなニュースです。」
彼の声が僕の耳にとどいた。
「新たな霧が発生しています。」
また霧か、と思った次の瞬間。
「神奈川県川崎市・・・・コングレスアパート」
と彼は言った。
これって僕の部屋があるアパートではないか、と思っていると、彼は続けて話し始めた。
「えー、大変申し上げにくいのですが、現在の労働関連法では、週の最大労働時間は、42時間となっておりますが、どうやらそのアパートにはここ4週間、全てにおいて60時間働いている人がいるようです。」

ん?
それは僕のことか?
僕のことだろう。
このところ非常に仕事が多く、残業しないととても終わらなかったのだ。
だが、それの何が問題なのだろう? と考えていると、彼は言った。
「その住所のアパートにおいて霧が発生しているようです。」
ここに?
霧?
なにを言っているのだ?
このニュースキャスターは?
そう思い、テレビに向かって文句を言おうとした、そのとき
「あなた」
と声をかけられた。
部屋の中をキョロキョロと見回したが、誰もいない。
音が鳴っているのは、テレビだけである。
僕は、テレビを見つめた。
いつもは見ていないテレビをまじまじと。
彼はこんな顔をしていたのか、と感慨に耽っていた。
そのとき彼の声が僕に投げかけられた。
「君、コングレスアパート2Cの君」
彼はじっと僕を見ていた。少なくとも僕にはそう思えた。
僕は一応当たりを見回して、人差し指で自分を指差し、彼に口元だけで「僕?」と言った。
彼は、僕の態度に呼応して
「そう君です。
 君、霧に包まれます?」
と言った。

えっ・・なんで、彼は僕に話しかけている?テレビだぞ、テレビから僕が見えるわけないではないか・・・
「君、未だに訳がわかっていないようですね。
 ま、いいです。
 もうすぐそこは霧に包まれます。
 霧です。
 濃い霧です。」
彼がそう言うと、僕はなにか白いフワフワしたものに包まれた。
白いものは触れようとしても触れることができず、しかしどんなにもがいても、逃れようとしても僕を包み込んでいた。
そして、僕の記憶は、しばらくもがいたところで途切れた。

「素敵なアパートですね。
 壁紙の色合いもいいし、床も明るくて」
女性がコングレスアパート2Bの中を覗きながら中年男性に向かって話した。
その女性は、これから新生活を始める、希望に満ちた感じが全身から溢れ出ていた。
ワクワクを隠しきれないのである。
一方、中年男性は、どんなに暑い時期でもきちんとスーツを着て、直立不動の姿勢でお客さんの相手をする、いかにもサービスが好きそうな男だった。
彼は、女性を見て、「何が楽しくて、こんなにもワクワクしているのだろう。」とおもいながら、彼女に部屋を案内している。
彼女を案内する30分程度の時間で、5回は思っていた。
そのことを悟られないよう、中年男は、少し低めの声で、ゆっくりと話した。
「ありがとうございます。当店ではデザイナーの方にお願いして斬新なデザインの部屋を提供しています。気に入っていただけましたか?」
誇らしげに。
女性は「なんだか、アナウンサーさんみたいですね。」
と言った後、
「私、こんな素敵な部屋に住むのが夢だったんです。
 でも、この部屋に入る前に隣の部屋の前通ったじゃないですか?
 なんか隣の部屋変な感じがしたんです。
 なんだか、ひんやりするって言うか」
そう彼女が言うと、中年男は
「そうですか?
 そんなことはありませんよ。
 何もわかりませんよ。
 何も。
 あの部屋のことは。」
 彼はいつものように、いつもの調子で、たんたんと話した。(了)


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