「ベルサイユのばらーフェルゼン編ー(2024雪組)」の一考察(ネタバレ注意)
「自分探し」
そんな言葉が流行ったのはいつの頃であろうか。
Mr.Childrenの歌に感化された人たちがいたからなのかどうかはわからないが、バブル崩壊以降、自分探しが流行し、特にインドへ旅行する人が多かったと記憶している。
1980年代であるが、僕の知り合いでもインドに旅行した人がいる。
とある企業に勤めていた彼は、思い立ったことがあって、会社を辞めると言い出した。
すると、彼は非常に仕事のできる人だったので、慌てた会社の人たちが彼を引き止めるために1ヵ月ほど休みを与えた。
その休みを利用して、バグワン・シュリ・ラジニーシに傾倒していた彼はインドを放浪する旅をしてきたのである。
彼は、僕よりだいぶ年上の人であったが、非常に爽やかな好青年であった。しかし、旅から帰った彼は、口髭を豊富に蓄え、凛々しさのある青年へと変わっていた。
彼がインドで何を見つけたのかはよくわからないが、とにかく彼の中で何かが変わったのは事実だったのだろう。
人は自分の知らない自分に出会うと言うことを追い求める。
そういう要素を持っているようであるが、科学的には「自分の知らない新しい自分」を、自己変容、自己開拓等の言葉を当てて理解しているようです(論文多数)。
ただ、自分のことを自分が1番知らないと自覚している人は多いのではないだろうか。私もその1人である。
自分のことってよくわからないのだ。
ハッとする瞬間、自分の知らない自分に出会ってしまう。「自分はこんな人間だったんだ」とか、「自分はこんな考え方をするのか」等、自分のことを再発見する日々。
そんなことの連続であろうと思う、人生と言うのは。
この芝居において非常に重要な人物 ーもちろん主人公のわけだがー マリーアントワネットそしてフェルゼン。
この2人が非常に対象的に描かれていた。
というか、女性は自分の変化に対して前向きな存在、男性は自分を変えない、変えられない存在、として描かれていたように思う。
そして、本当の自分と仮面を被った自分という、自己の存在の二面性を描いていたと理解している。
この二面性を表現するために印象的に使われていたのがステファンと言う「人形」である。
このステファンと言う人形は、マリーアントワネットが腰入れの際に取り上げられたものとして描かれているのであるが、このステファンにマリーは何を投影していたのであろうか。
マリーが幼い時から培ってきた「本当の自分」をステファンに投影していて、ステファンが取り上げられたことにより、「本当の自分」を仕舞い込んで「仮面の自分」を作り上げてしまったのではないだろうか。
「仮面の自分」はすこぶる居心地が悪いはずである。目的達成のための「仮面の自分」であれば、我慢できるかもしれない。人間、目的があるときは邁進できるものだからだ。
だが、マリーには目的があったであろうか。
言われるままに嫁ぎ、崇められ、存在を演じなければならない。そこには自己の意思等介入できる隙間は存在しなかったのである。
ただ仮面をつけ、仮面のなかに「本当の自分」を押し込めているしかなかったのであろう。
なんと苦しいことなのだろう。
私なら、到底耐えられない。
散財に走るのも理解できる。
しかし、彼女は、激動の時代の中で、様々な人との関わり、国王を含め様々な人への再認識、自分が人間であることの再認識等を経験します。これらの経験を通じて、仮面が剥がれていき、そして最終的には「本当の自分」を取り戻すのです。
そして本当の自分を取り戻したときにステファンも戻ってくる。
そこがこの芝居の感動的なところだと思います。
「本当の自分」とは、自分の意思で、自分の思う「信念」を貫こうとする自分であり、これは自己中心主義によるものではなく、社会(最小単位の家族が最も重要)における自分を意識したもの、と演出の谷先生は定義しているのではないかと感じました。
まさに、このお芝居が、一段上の高みへと昇っていると感じるのが、この定義を体現している、ステファンの使い方にあったと思うのです。
一方、対照的に、フェルゼンは、常に自分を持っている存在として描かれていたと思うのです。
仮面の自分から本来の自分へと変貌を遂げていくマリーや、仮面の自分からの変容を遂げるオスカル、革命思想から尊厳の意味を深く考慮する人へと変貌するロザリー等の女性たちとは対照的に、頑なに自分の意思を貫こうとする、変化を拒む存在として、フェルゼンが存在していると。
変化を拒むということが悪いことであるかどうかと言うのは置いておいて、この芝においてはフェルゼン、いやこの芝居に出てくる男たちは皆どこか「バカ」として描かれている。
ここで言う「バカ」とは、”一途に自分の思いを遂げようとしてもがいている人間。それゆえに愛すべき人間”のことである。
ここではそういった人間のことを敬意を込めて「バカ」と言わせてもらう。
フェルゼンやアンドレほど、「バカ」と言えるほどに一途に誰かのことを愛し、そして自分の心に正直にその愛を貫き通すことができるだろうか。
なかなかできることではない。
だからこそ、このような「バカ」は、本当に人から愛される人間なのだと思う。
もっとうまく立ち回ることができるじゃないか。そう思うのにあえてあえてうまく立ち回ることよりも愛を貫き通すことに邁進する姿。そこに人は心を動かされるのである。
フェルゼンは、ステファンを持って登場し、ステファンをもって幕が降りる瞬間を迎える。
彼は、本当のマリーを抱いて、マリーのいない世界を生きるのである。
本当のマリーは、彼の手の届かない存在であることを知っているのか、それとも知らないのか。
とにかく彼は「本当のマリー」と生きるのである。
切なさと共に、「本当の自分」を見出した人は幸せに描かれている。たとえ死を迎えたとしても、である。
「本当の自分」を認識し、精一杯生きる。
その素晴らしさを、伝えてくれる素晴らしい公演である。
演出の谷先生には、本当に感謝である。
そして、おおいなる「バカ」を見事に演じ切った主演の彩風咲奈さんは、本当に素晴らしいとしか言いようがなく。
ともすれば滑稽(女々しい)になってしまうような難しい役どころなのに、テーマを伝える演技、そして何よりカッコイイと感じさせてしまう凛とした立ち居振る舞いと存在感。
彩風咲奈さんの宝塚男役の集大成として、本当に素晴らしい作品になっていましたる。
感動をありがとうございました。
フィナーレでは、「オスカルが正面に立ち、はからずもモンゼットでない我なれどモンゼッツ」でした。
ー了ー
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