「アスリートファースト」とは?
「アスリートファースト」
今、その言葉によって多くの国民の気持ちや不安の矛先がアスリートへ向けられてしまっていることを、各界のリーダー達は深く理解した方が良いかも知れない。
国民の為のスポーツが、いつしか国民の不満や不安要素になってしまっているのは何故だろう?
「アスリートファースト」とは何だろう?
答えは書きません。僕もわからないから。
スポーツ界に生きる我々皆で考えて行きたいテーマです。
その言葉が使われたあらゆる場面でのケースから読み解くと、
「アスリートを優先して判断する」と言うことだろうか?
それとも、「アスリートを主語に決定する」と言うことだろうか?
であれば、僕が思いつく限り「アスリートファースト」と言う言葉を使っても良いケースは以下の場合にしか考えられない。
①限られた時間や場所、権利の中で、アスリートかスポンサーあるいは関係者等、両者の間に利害関係が生じている場合において、どちらか一方を優先しなければならないとき。(例えば、競技会場の一区画を選手の控室にすべきか、来賓用のVIPラウンジにすべきか?どちらか一つしか確保できない場合など)
②全員が順当に権利の履行や恩恵を受けられる場合、順番的にアスリートを先に履行させなければ物事が進行出来ない場合。(スポーツイベントやアスリートが出演するイベントなど、アスリートが先に入場またはそこに登場しなければ、その他全ての人が困ってしまう場合)
③自分かアスリートかどちらかを優先しなければならない場合。
以上
それくらいしか僕には思いつかない…。
よってそれ以外の場合、アスリートファーストと言う言葉はあまり適切ではないと思っている。
イベントそのものの開催や場所の使用、教育、医療、その他、全ての人に与えられた平等な権利や義務に関しては、基本的にはアスリートもいち国民と捉える。
よって、いかなる場合も差別や不平等性が生じてはならない。
少なくともアスリートはそれを望んでいない。
スポーツは如何なる場合も「国民ファースト」であるべき。
アスリートにとって最も大切な存在は、支えてくれるファンであり応援してくれる国民である。アスリートは皆、それを十分に理解している。だから頑張れる。
支えてくれる人たちの意向や生活を苦しめてまで、競技をしたいとは誰一人思ってはいないだろう。
ただ、誰かに勇気を与えられるのなら、誰かの支えになれるのなら、
自分に与えられた権利と役割を全うするのがアスリートと言う人種だ。
人は、仕事があれば当然全力で働く。
大好きな人がいれば当然全力で愛す。
アスリートにとって「スポーツをする」と言うことはそれら人間社会の道理と同じこと。競技が行われれば、全力で挑むのは当然のことだろう。
真のアスリートに「スポーツをするな」と言うことは、人に働くことや愛することを禁ずることと同じである。
理解出来なくても、理解して欲しい。
アスリートは特別な人間ではない。
優れたアスリートの類まれな能力は、生まれ持ったものでも天から授かったものもない。多くの大切な時間を犠牲にして得た権利なのである。
受験を頑張って有名大学に入学出来た人と同じ。
入社試験を頑張って就職出来た人と同じ。
貯蓄して欲しいものが買えた人、第二言語を習得した人、なりたい職業に就けた人などと同じなのである。
故に特別扱いも出来ないし、余計な責任や義務を押し付けることも出来ない。
最後に
オリンピック=アスリートではない。
オリンピック=国民全員
アスリート=国民の一人
である。