どういうパートナー、友人と真剣に付き合いたいのか

えらそうな話だ。
異性の親密なパートナーは存在せず、友人もまた多くなく
また存在したとして私の現況(障がい者手帳のこととか、過去のこととか)を正直に言えてないわけで
そのときに「どういう」パートナーとか、友人などと、えらそうに限定している様はおかしい。

が、物事には真剣に望まないと、求めるものは得られそうもない。
だから少しでも表に出してみる。

①障害や生きづらさをラベルにしていない人

SNSをはじめて、これが実は難しいのだと気づいた。
何らかの困難を持ち、現実にそれを前提にして生きざるを得ないとき
人は障碍者手帳のことや、病名や、どういう薬を使っているか…を
プロフィール欄に記載してしまう。
そして、そのこと自体が人間関係、コミュニケーションをつくる足場として用いられる。(…とすると、同じ足場を持つ人とつながる)
そして、「そういうわたし」を許してくれる相手を、暗に求めてしまう。

わたしも、ここに障碍者手帳のことや、それを巡って起こる過去の様々な葛藤を書いてるし
根の部分には「そういうわたし」を許してほしい、という気持ちがある。
だから他人様のことは言えないのだけど
できるだけやめたいと思っている。

キツいことを言っている気がするが
障害の名前、病名、薬のこと、犯罪歴のこと
もしくはLGBTQなど、ある種のカテゴリを使った名乗りは
その人そのもの、ではない。
その人そのもの、に関係しているが、その言葉でその人をあらわさない。
だから、どんなに困難でも
他所から借りてきたカテゴリ(名づけ)で自分のことを深く知った気に私はどうしてもなりたくない。
最初の段階で名づけが必要なことはあるが
厳しく言えば、そこを卒業した人と友達になりたい。若い人にはキツい話だと分かるけど。。


②生まれなおし、生きなおし、というモチーフ

わたしは勝手に想像するのだけど
たとえば50歳まで本当に外に出ず引きこもっていたとか
25歳の時に犯罪を犯してしまい、その罪を形式上で償うのに50歳までかかり出所した人がいたとする。
その人は、何にしても50歳から別な人生を生きなおす、その人なりに少しでもよい人生をやり直そうと思うわけだが
この人に訪れる困難とは、どのようなのものだろう?

この人は、50歳なりに、人とコミュニケーションを取ろうとしたり、働こうとしたり、生活を営もうとするが
いかんせん50歳まで引きこもったブランクや、刑務所にいたブランクにより
「現在」の社会では、コミュニケーションに困難を抱える。
それに対して例えば職業訓練だとか、ソーシャルワークといった支援の形はありうるのだろうが
それも結局、対処療法的なものだろう…という予感がある。

これはまったく私の想像だが
この50歳の人は、自分の人生の最もアグレッシブだった時期
つまり20-30代のうちに「やりたかったこと」「やっておくべきだったこと」を
良くも悪くもスルーして生きてきたことに起因すると思われる
どうしようもない欠落感、喪失感と
どう折り合いをつけて生きるのか?という問題が浮上する。
これは誰もがそう簡単に手助けできない。

人にはどうしても取り返しがつかないことがある。
諦めなければならないことがある。
障害とか、引きこもりとか、前科とか…そういうものとも無関係に
ふつうに生きていればそういうことはある。

私はそういうものを直視することに時たま耐えられなくなる。
自分の感覚を閉ざし、歓びや悲しみを感じないように自分を訓練し
他人とのコミュニケーションを極力避けるようにしていくと
さまざまなことから目を背けることができてしまう。
自分が本当は、何を取り戻せなくなっていて、何を諦めざるを得なくなったのか。
そのことで本当は、どんなふうに苦しいのか、悲しいのか、悔しいのか…。
湧き上がる嫉妬の感情や怒り。
それを感じないで生きていくこともできる。

だけども、たぶん人は一般に、今日をよく生きよう、明日をよく生きようと
本気で願えば願うほど、それを実行すればするほど
どうしても過ぎ去った過去、取り返せないこと、諦めてしまったことと
再び対峙して、なにがしかの方法でそれに折り合いをつける必要が出てくる気がする。
それは職業訓練やソーシャルワークや、心理療法とはまた別のことだと私は思っている。

そういうことを互いに知りつつ、本気で生まれなおしたい、生きなおしたいと思っている相手。
もちろん、生まれなおしや生きなおしには、何年も何十年もかかる。
「これさえやれば」人生が変わる、といった発想では全く成り立たない。
そういう、遅くて困難な道のりを、一緒に歩いていく相手が欲しい。そうしないと幸せを追求できないと私は考える、、、


③…とはいえ、私にとって「女性」は特別な存在になっている

これは相当に難しい話だ。
私の個人的な属性や、欲望、なにに美を感じてしまうか、と関わっている。
女性パートナーを求めてしまう。

これは何重にも難しい話で、私のような状況になると
世間一般の女性たちが求めるであろう「安心」を、物理的な生活基盤として担保することは出来ない。
が、できるだけ自分が社会のなかで物理的な生活基盤を得られるよう努力したり
あるいは、コミュニケーションの作法、小奇麗な容姿、少なくとも不快と思われないような生活上の気遣いを身に着けることで
「少しは」マシになったほうが、パートナーを得るのに、そのパートナーと関係を深めるのに役立つだろうとは思う。

一方、それは自分にとって表面的な付け焼刃であり
じぶんに正直な生きなおし、生まれ直しとしては、↑の①、②のような前提を抱えた男だ…
ということを隠したまま関係を深めるのは難しいとも思っている。
ということはすなわち
相手が抱えている困難や前提をも、同様に受け入れる覚悟がなければどうしようもない。
そしてまた、その受け入れるとか受け入れない、という話を
イコール「結婚」のことだと短絡されたくないとも思っている。(めんどうくさい男だ)

少し話はズレるが、その昔、だめ連という男性たちの集団があり
その流れを汲んだと思われる「だめライフ研究会」という風な主に男子たちの集団が、さまざまな大学に生まれているらしい。

ここでいう「ダメ」とは、社会的にダメでなくなるように
きっちり、まじめにシュー活に励み、きっちり、まじめに働き続け
自分を何かの所属や収入でもってヒトカドの人間に仕立て上げて生きていくことは
現行の社会システムを強化・上書きすることにしかなっておらず
資本の暴走や環境破壊、家父長制的な男性中心主義に抗って生きるのには
「むしろ逆に」ダメであることを突き詰めるしかない、という発想だと思われる。

ところが私が見たところ、このだめライフの周辺にいる男たちは
自分たちはとことん「ダメ」を突き詰めるが
同時に、そのような「(社会的な基準で)ダメ」な男性であっても
女性パートナーを欲したり、下世話に言えばふつうにセックスがしたいと思ってしまう…、異性に性的欲求を抱いてしまうが
果たして自分が「ダメ」なままで、それを受け入れてくれる女性は存在しないのか。。。といった困難を暗に抱いているように見える。
これは彼らのアカウントが、だめライフの研究と実践が、やはりどこまで行っても
男たちの発想、男たちのものに縛られているように見える…ということだ。

そろそろ、まとめよう。
男が現行の社会システムで「ダメ」であること。
あるいは自分の弱さや困難を前面に押し出したうえで
それを受け入れてくれる女性を求めること(求めて存在しない女性に恨みを募らせること)は
外から見ていて非常にキツいものがある。
気持ちがわかりすぎるだけにキツい。
もっというと、社会的に「ダメ」であるからこそ、女性からの承認を強く強く強く欲するという逆説さえ生む。

私の考えでは、もし私を含めた男たちが真剣にそういう風に思ってしまうなら
ダメや弱さを前提にした関係づくりを望まざるを得ないのなら
世の女性たち、とくに同じくダメや弱さを前提にした関係づくりを望まざるを得ない女性が
結局のところ何を望んでいて、何を望んでいないのかを
真剣に見ること、聞くこと、感じることでしか、どうにもならないと思っている。
それはまた、いわゆるフェミニズムの影響とも無関係ではなく
いわゆる家父長制的な…といわれる男性優位社会とも無関係ではない。
つまり…、ひとりの女性が真剣にダメであろうとするとき
その女性と、男たちがどういう関りを持つことが大事なのだろう。
相手を搾取せず(金を全部出して食わせてやるから、専業主婦のように俺の世話をしろ、セックスさせろ、では駄目だろう)、かつ互いに依存しきることもなく、それぞれの生きなおし、生まれなおしを支えあえるだろうか。

これに一般的な回答があるわけではなく
わたしと、その人、という個別の関係でしか、何も考えることはできない。
進めることはできない。
しかし、考えるとか、進めるといっても、勝手に相手を片思いして
関係妄想を膨らませるのはよろしくない。
相手と親密な関係に入っていくためには、相手がそれを承認してくれないと成立しない。
わたしは言葉で何を言おうと、その承認の遥か手前で立ち止まっている。
来年はここから、一歩でも先へ進みたい。
自分なりにマシな人間になること、マシな男になること、そしてダメであること弱くあることを隠さないこと。これの両立は、すごく困難な道だ。

























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