莨
空気が凛として澄んだ秋の夜、眠れず持て余していたのでベランダに出た。新居に越して来たばかりで、引越の際ゴミ袋に投げて来た灰皿が不図、生活の中ではコップと同じくらい──────私に取ってはそれ以上、無いと困る物だと気が付いた。故郷の東山焼の底七センチ程のを代わりに使っていた。御土産を此上無い雑用係にして了った後悔は、本の三本捨てただけで煙と化した(或は最初の一本で消え去って了ったかもしれない)。越してきてもう一週間も経ったのかと、焼物の中で屯している幾つもの吸い骸を見て思った。
ウールの羽織を背負っていたので、吐く息がボウボウと白い塊を作っていても、裸足が気になるだけで寒さは済んだ。此の前まで横浜の市街地から僅か一キロの丘台に住んでいたので、見下ろす景色は煩かった。比して此の町は、引き締まった空気がそれ自体主役になってしまう程静かだった。灯りの少ない町では莨の火もまた存在を大きく示していた。暗闇を更に暗闇とし、黒を一層深めさせるオレンジは、煌びやかで艶めかしく、生々しい程に翳りを見せなかった。
時計は零時半を回っていたが、幸い仕事は暇を貰っていたので夜更かしに心配は要らなかった。バーボンを喇叭飲みすると、三回に一度身体がびくとする。屹度、香りが一瞬の内に身軀を駆け巡って鼻に到る際の擽りだと興じた。モルティーの香りと莨は良く合う。鼻抜けの良い薫製の香りは、舌と喉に長い時間へばり付く酒のお陰で大分楽しめた。晩酌にバーボンストレートと女無天の効いた莨は堪らなかった。今夜も、眠れないならそれがいいと酒を口に含んだ。
偶には考え事でもしようと、部屋の明かりを全て消してベランダに出た。先程使ったライターが焼物の横に転がっていた。ベランダのライターは三つ目だ。莨の先端に火を付けるとジリジリと音を立て始めた。単に吐く息よりもどろっとした平べたい煙が口から出た。燃焼の過程で出る莨の先端の煙は、静かな風を敏感に捉えて揺れた。一本の生命は、オレンジ色に華やぎ、確実に、一筋の残酷な道をジリジリと歩んでいた。火を点したが最後、ベクトルは一方向に定まり、その瞬間から右往左往風に揺られ流される生が始まった。華やいでいたオレンジの光が、生ける血潮に見えた。
火を付けたのはだれだ?
余りに残酷な生を与えたのはだれだ?
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リビングの明かりを付けると莨の血潮は存在の中に溶け込んで行った。換気扇の音に声も聞こえなくなった。
私は亡骸の山にまた一つ吸い骸を押しやった。