「今」の境界線はどこに存在するのか(今日のは、役に立たない話(いつもそうだろ))
僕には訳の分からない話で盛り上がる友達がいる。毎回どうでもいい事で、それぞれの意見を言い合っては闘っている。要するに僕達は暇人なんだ。
この前も飲みに行って色んな話をしてたんだけど、僕が会話の中で「今」という単語を口にしたら、その友人が「今という瞬間はもう過ぎ去った」と急に哲学しだしたのがきっかけでバトルが始まった。
8割くらいの人が「めんどくせぇー」と思うような主張だが、僕は反論した。
8割くらいの人が「めんどくせぇー」と思うような反論だが、僕の言いたいことはこうだ。
友人は直線の時間軸上に「今」という瞬間を見出そうとしているが、それではどこまで時間を切り刻んでも「今」と呼べる瞬間には到達しない。「今という瞬間はもう過ぎ去った」のだから、少しでも時間の経過があれば、それは「今」を取り逃がしたことになる。時間を無限に切り刻んでも、時間軸の上で考えると、必ず時間の経過があるはずだ。たとえ0.0000001秒だとしても時間は経過している。
ユークリッド幾何学の公理では「点」は面積を持たないと中学校の時に習った(たぶん)。点が面積を持っていた場合、その点の中にも点が存在する事になる。さらに点の中の点も面積を持っているのだから、その点の中の点の中にも点が存在する事に(以下略)。
現代数学では集合の空間がどうのこうのって事になってるらしいけど、その話は難しいからパス。
面積を持つ「点」を無限に拡大すれば、その中には必ず面積を持った点が存在する。時間軸上に「今」を見出そうとすると、これと同じようなことが起こってしまう。0.1秒の間には0.01秒があり、0.01秒には0.001秒が(以下略)。時の流れを堰き止めない限り、無限に時間を切り刻んでも必ず「今」は過ぎ去ってしまうのだ。
この問題を解決するにはどうすれば良いのか。「点」を物理的実体としてではなく座標の位置情報と捉えるように、「今」も時間軸上に存在する瞬間ではないと考えればいい。
「今」は、時間軸上に存在する瞬間を指し示したものではなく、会話の当事者同士が「今」という言葉で合意できる瞬間(あるいは時間帯)と考えるべきだ。
「今」というものは、その時語られている文脈によって意味が付与されるものであり、時間軸上に「今」という瞬間を認める事は不可能。「今」という瞬間の連続が、時の流れではない!これが僕の主張だ。
友人は納得してくれず、そのうち再試合が行われるだろう。「めんどくせぇー」と思いながらも読んでくれた皆は納得してくれただろうか。というかそもそも、こんな内容のnoteを読んでくれた人はいるのだろうか・・・。
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僕は「今」からyoutubeでも見るよ。
読んでくれた人、ありがとう!!