【藤井風-"帰ろう"】孤独感は魂のホームシックだった
※2022年1月に書いた記事を一部修正して投稿。
いま80代末期がんの方の在宅リハビリを担当している。ここ1週間食べられなくなってきて、徐々に人生の最期が迫ってきている。
つい2週間前は会話ができていたし、歩けていた。だけど、病状が急激に進行し、今はほぼ寝たきりに。表情も険しく、呼吸も苦しそうで、寝返りするのもしんどい状態。
この状態になると、治療者(理学療法士)としてできることはあまりない。
できるのは、少しでも呼吸が楽にできるようにするくらいで、本人や家族が望む最期を迎えられるよう、そのサポートを行うのがメインとなる。
昨日、リハビリに伺ったときに、患者さんが苦悶の表情の中で手を差し伸べてきた。僕はその手を取り、もう一方の手で背中を撫でた。
その瞬間、その方の孤独感が痛いほど伝わってきた。
うんうん、そうだよね。
寂しいよね。
怖いよね。
僕は少しでもその孤独感が癒やされるよう、ただ"祈る"ばかりだった。
僕が別でやっているコーチングセッションでのこと。
潜在意識の奥底に、みんな共通して持っているものがあった。
それが『孤独感』。
暗い部屋の片隅で膝を抱えていたり
土の中に生き埋めにされていたり
深い井戸の底に閉じ込められていたりと
シチュエーションは様々だが、おしなべて強い孤独感を抱えていた。
この孤独感を感じるのが怖くて嫌で、人に嫌われないように、一人にならないように、みんな自分の本音を抑え込んだり我慢したりしていた。
「人のため」「役に立つため」
といえば聞こえはいいが、ほとんどは孤独を避けるために大義名分として言っているのだった。
かくいう僕もいつもどこかに孤独感があった。
自分で潜在意識の深掘りをしたときのこと。
奥底に出てきたのが、永遠の闇の中を漂う恐怖感、孤独感。
上も下もわからない、自分がどんな体勢かもわからない、音もなく、何も見えない。
めちゃくちゃ怖くて震えた。
そうか、僕は無意識にこれを避けるために行動していたのか。
だから、イベント企画をよくやった。自分が中心にいれば、周りに人がいてくれるから。
でも正直、孤独感が癒えることはなかった。
人といても孤独感はあったし、イベントが終わったあとの虚しさはとてつもなかった。
僕には居場所がない
どうせ一人
消えたい
そう思うことも多々あった。
でもそんな自分も嫌で、また光を求めては、さまよっていた。
ここまで書いて僕が思い出したのが、藤井風さんの『帰ろう』という曲だった。
この曲は彼の死生観を表したもので
死を"帰る"
と表現している。
つまり、あの世こそ、帰る先の"ふるさと"ということ。
逆にいえば、この世はふるさとを離れ、異国にきた状態。
そう考えたら、
孤独感は
"魂のホームシック"
なのかもしれない。
ふるさとは、いわゆるワンネスの世界。
すべてが一体。
そんな大いなるふるさとを離れ、やってきたこの世は"私"がいて、その他は"私以外"。という一見分離している世界。
元は一体であることを知っているとしたら、この世で孤独感を感じるのは、当たり前かもしれない。
離れれば離れるほどふるさとの有り難みがわかるように、孤独感が大きければ大きいほど、繋がっている一体感や喜び、愛を感じ、その存在に気付くことができる。
気付き腑に落ちれば、この世もあの世と同じワンネスの世界、"ふるさと"になる。
魂のホームシックである孤独感も癒やされていく。
患者さんの手を取りながら、僕は
『患者さんの、また世界中の、孤独感が癒やされますように』
と祈りを捧げていた。
それはすごく穏やかで、あたたかいものだった。
その祈りが届いたのか、患者さんの呼吸は少し落ち着き、苦しそうな表情も少しほぐれた。
それをみて、ご家族も少しホッとした様子だった。
微力ながらお役に立ててよかった。
(この2日後、患者さんはお亡くなりになりました。改めて、ご冥福をお祈り申し上げます。)
僕はこれからこんなテーマでアートに取り組んでいきたい。
『アートで孤独感を癒やす』
アートとは、作品であり、言霊であり、人生であり、祈りだ。
それによって孤独感が癒やされ、ふるさとにいる安堵感でこの世を生きられたとしたら
僕にとってこの上ない喜びだ。
僕はそのような存在として、これから生きようと思う。
取り留めのない話をここまで読んでくれてありがとう。読んでくれる人がいるから、書くことができます。
そして、もし何か感じてくださることがあったのなら、それはあなたの感性のおかげです。
共振、共鳴したこと、この一期一会に感謝。
ありがとう。
一期一絵
まつはしゆたか