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幼かったころの風景
幼かったころの風景を覚えていますか?
私の近所の家々は、瓦屋根の家々は数えるほどで藁ぶきの家ばかりでした。実家から百メートルばかり離れたところに赤い瓦屋根の家(平屋でしたが)があり、かわいいらしくてやたら目立っていました。
「洋館」と言えば(と言っても、今考えるとただ屋根が赤色だけだった、他は今でもあるような家でしたが)その家だけだったような気がします。そこに住む家族は戦後神戸から引き揚げてきたそうで、近所の人たちjはそこを「神戸」と呼んでいました。
私の母たちは兵庫県の芦屋から引き揚げてきていたので「芦屋さん」と呼ばれていました。戦後母と父は結婚したのです。ちなみに父も岡山の人ですが、戦争が終わったときには広島県の呉にいました。何も語ることはありませんでしたが、広島のことは何かを見たのだろうと思います。あまりに悲惨過ぎて語れなかったのだろうかと思いました。
母は芦屋の高台から神戸が爆撃を受けているのが見えた、まるで花火のようだった、後で海岸に行くと馬とかが亡くなっていた、と言っておりました。
芦屋から引き揚げるのにはJRから貨車を2台借り込んで岡山に帰ったとか・・・。要するに家財道具と一緒に自分たちもその中に乗って帰ったということです。随分な時間がかかったのだろうと思います。
今はいい時代ですね。新幹線に乗ると岡山から大阪へは1時間以内で着きますから。
私が幼かったころ、それはまだまだ戦争が終わって数年だけ、日本中が飢えていたころかもしれません。
田舎もずいぶん変わりました。藁屋根の家々の外には木の塀があり、木の門(屋根付き)もありました。我が家には土塀がありまた。
まず、そんな門や塀が取り払われてしまった。いつのことだったでしょう。
そして、お隣で飼われていた黒い牛が(彼らは農家だったので農業に牛がいたのです)家の外につながれるようになりました。
上の写真は藁屋根です。藁屋根と言うと台風などが来ると半束分くらい一か所から藁が飛んで行ってしまったりで大変だったことを覚えています。
そして、何年おきだったか、屋根全体の藁を底のコミュネティ総出で吹きなおしの手伝いをしてくれて…。コミュニティのきずなはもっと強かったとのだと思います。
お葬式とかがあると、その家の人は何もしなくてよくてコミュニティの人たちが食事を作ってくれていました。コミュニティ持ちの倉庫にそういうときのために一式食事用のお皿や椀なども保管してありました。
お葬式と言えばすごい数の人たちが並んだ・・・。コロナ禍以来、これも簡素化されてしまった。家族葬とかいうものができた・・・。
本当に様変わりをしたと思います。
田舎の景色は随分と変わってしまいました。行くたびに変化が見られました。人工的なものだけでなく自然的にも山々はもっと丸く見えるような気がしました・・・もっと木々が茂ったのです。
変化はしょうがないにしても何か味気なくなったような気がします。私が幼かった時代の景色の中にはたくさん語れる物語があったような気がします。