あなたのお家のドアは内側に開きます?それとも外側に向かって?
義母のところの家の写真などを見ながら、今まで何も思っていなかったことを、あれ?と考えてしまったのです。皆さんの家の玄関ドアは内側に向かって開きますか?それとも外側ですか?
夫にも疑問を投げかけましたが、やはり義母のところの玄関のドアは内側に開くようになっていました。家のどのドアもそうです。
そして我が家のドアと言えば、この家のドアも古い方の家のドアも外に向かって開きます。
私は日本ってドアまでも「外に向かって開けた文化」(このことに関してはいずれ書きます)か、と思ってしまったのです。
ヨーロッパの家はどこも日本とは逆の様です。
どういうことか分かりますか?
外敵がやって来たとき、ドアは内側に向かって開くので誰かを、敵を入らせまいとすればドアの内側に何か重いものを置けばいいのです。
その段階で、外敵に向かって家は要塞になるのです。
日本の家だと下手すると開け閉めを決定するのは外に立つ人ではありませんか!
そんなことを考えていたら、十数年前に訪れた中国福建省の客家の家々を思い出しました。これらの家々は実に要塞そのものなのです。
中国の人々自身も長いこと客家の村々の存在を知らなかったとか。とにかく町からかなり奥へ奥へと行ったところで客家の人たちも隠れ潜んで住んでいたということです。
人工衛星が飛ぶようになってアメリカが空から見ると異様なものが見える、と大騒ぎになり、これらの家々は中国の核施設ではないか、と使節団を送り込んだとか。
それからです。客家の家々が世界に知られるようになったのは。
写真のように一戸の土楼(とろうと読みます)には何百もの住居があり、彼らの生活は自給自足だったとか。
私たちが訪れた時にも土楼の出入り口にはもろもろのためのものがありました・・・大きな水をためておくかめとか、畑の肥やしのための○○とか。
住居の真ん中の空間はこれまたもろもろの催事が行われていたとか。とにかくすべてのこと…お葬式とかも。
私たちが訪れた土楼は写真のように真ん中に建物などはありませんでした。もっと開けたスペースがありました。
ただし、私たちが訪れた時も、聞きましたが人々はだんだんに町に流出していき、そんなに多くの人たちは残っていないそうです。頭首は若い女性でした。
かなり大きな建物で本当に要塞に見えます。建物自体はものすごく大きいのに出入り口は1か所か2か所しかなく、写真のとおりで3階とかに窓があるだけです。内側には写真のとおりでたくさんの居住空間、そして居住者が行き来できる出入り口があるのに。
なぜ、彼らが客家と呼ばれるか、と言うことですが、漢民族は彼ら、戦火などから逃れてやってきた人たちをお客さんと見た、と言うことからだそうです。ただし「よそ者」と言う意味を込めて。
客家の人たちはアジアのユダヤ人と呼ばれ様々な意味で活躍しています・・・賢い人たちと思われているようです。
江沢民(どの土楼だったか忘れましたが、そこに住んでいいる人たちはほとんど彼と同じ江姓だと聞いたことがあります。親戚なのでしょうか)、鄧小平なども客家だったそうです。
シンガポールとかに流出した人たちも多くが客家とか。
それにしても、人間の考えることは世界中同じなのでしょうか。街の大きなマンションだって出入り口は一つしかなく、少し形態は違うものの、上に上にと立ち上がった灰色の要塞にしか見えないと思いませんか。
大きなクルーズ船をイタリアで見た時には、同様な感慨に陥りました。ただし、マンションが横になっている、と思ってしまったのです。
ずっと以前、スペインに旅した時、客家ではなく、本物のユダヤ人たちが迫害を逃れ隠れ住んでいた・・・スペインの山の中で隠れ住んでいた人々の集団が見つかったことがあったと聞きました。
ところで、このドアの写真を選んだ一つの。話はもう一つドアの話をしたかったからです。ヨーロッパを旅した時、どこでだったかはっきりとは覚えていないのですが、アイルランドだったでしょうか、たくさん並んでいる家々のドア(タウンハウスのドア)の色がすべて違っていたのです。
ガイドさんからそのことに関して特別お話がありましたが、美しいと思いました。日本の空気の中でもしそんな家々があったらとっても変に見えるでしょうか