母と一緒に旅行 大連編・・・ですが、いろいろ書きました
前回、母との旅行でひどい目にあったというお話はオーストラリアに行った時のことでしたが、今回は大連でのことです。母と、夫それに私での個人旅行でした。まあまあのホテルに泊まっていたと思います。
ただし、それからどれくらい経ったときのことでしたか、そのホテルで日本人客が殺害されたという事件がありましたが。まあまあのホテルというのは、実はもう一度大連に旅することがあったのです。大連への4回目の旅・・・その時は、トラピックス主催のツアーだったのですが、そのホテルに宿泊しましたので。
さて、旅行が始まって、すぐの日、つまり、そこに行きついた同じ日、私がひどい腹痛に襲われたのでした。次の日は観光どころではありませんでした。原因は食事だったのでしょうか。
実際のところは分かりませんが、ホテルの部屋で寝込むことになりました。
1日、部屋の中にずっといて分かったことがありました。私は見てしまったのです。そんなんじゃあお腹がおかしくなるのは、当たり前でした。
ハウスキーパーが部屋の掃除に来てくれたのですが、その掃除の仕方などなど・・・見たらそこにある者は一切口にはできない、触ると手を洗わなければ…の感じでした。部屋にあるカップなど、彼女はそのあたりを拭き掃除した後、早い話、雑巾でテーブルの上もカップも吹いていたのです。
私たちが何も考えずお茶でも作ってそのカップっで飲んだら病気にならない方がおかしい。知ったときには遅かりしでした。母のお腹もおかしくなって次の日は母も寝込んでしまいました。
どれくらいの旅だったか覚えていないのですが、7~10日くらいだったでしょうか。帰国する時には私は治っていましたが、母はまだ調子が悪くて、私と夫が観光に出ている間も母は部屋で休んでいました。母は心細かったに違いないです。
今、考えると、私って悪い娘でしたね・・・。観光をしながら、病院が目に入ると、この病院に母を置いたまま帰国することになるのか、などととんでもないことを考えていたのです。
そんなこと母には言えませんでしたが。
帰国する日、母は気丈に起きだして、ともに帰国の途につきました。母は母で「こんなところに置き去りにされてなるものか」と思っていたのでしょうね。
後に何回も中国に旅するうちに、中国人は食事の前にどんなことをしているか観察、見ることができました。なるほど、と思いましたよ。
自分の手元に箸(日本と違って割りばしではないのです。何回も使いまわしをしている木の箸のこともありました)、湯飲みをとるとテーブルに供されたお茶(ものすごく熱いです)でまず消毒をしていました。
合計、4回、大連に入ったことがあるのですが、上記した4回目は妹とツアーに参加しての旅でした。ちょうど尖閣諸島のことで騒がれている時でツアーで、実際はもっと多くの方々が申し込んでいたのでしょうが、関西空港まで出かけてみると、ツアー参加人数、たったの13人でした。前日にトラピックスの方から電話が入りキャンセルしてもキャンセル料はかからない、と言われたようで大勢キャンセルしたみたいです。
我々のところへはそんな電話はなかったです。
ANAの飛行機でしたが乗っているのは我々13人と後2,3人だけ・・・。まるでチャーター機みたいでした。
大連市内の観光地で公共の乗り物を待っている時など、例によって中国人が割り込もうとしたので文句を言ったら、ガイド(現地の人さん)にこの時期柄、けんかになるようなことは控えるように、と言われました。
今、また、中国では同じような状況がみられるのでしょうか。もっと怖い感じかもしれませんね。
反日教育などしていないと中国政府は言っていますが、TVを付けると毎日どこかのチャンネルが抗日戦線のドラマをしてました。ああ言うドラマって製作していると話の筋はだんだんエスカレートしていくのだと思います。
そして、人々はそれを信じてしまう・・・。こわいですね。
3回目は母、夫、そして叔父夫婦とツアーに参加して出かけたのですが、雨の中、母は旅順の203高地に自分の足で登ったり、すごい元気でした。
5月末くらいだったでしょうか、気候はとても快適でした。その時期だったのでしょう。サクランボをいっぱい食べることができました。
大陸性の気候で、夏もそんなに熱くないのだと思います。コロナ禍に入る前、その年の夏、再び旅行しようとホテルの予約も入れていたのですが、コロナで結局キャンセルしました。
もう中国へ旅することもなさそうです。
上の写真は中山広場です。日本人なのでつい「中山広場」て言いますが、現地では「ちゅんさん」と発音します。中国のどの町にも中山広場があります。それだけ孫文は偉大な人とあがめられているのでしょうね。
日本では孫文の呼び名の方が通っている?中国で孫中山のようです。