母との旅行 オーストラリア編
暮の旅行の用意しながら(早すぎる?)、母との旅行を思い出していました。この夏、母は亡くなってしまいましたが、年にしてはずっと元気だったと思います。母の最期の海外旅行は彼女八十八歳の時でした。
母が初めて海外旅行に行ったのは1994年だったでしょうか。私が計画を立てて妹も一緒にパリに行きました。ヨーロディズニーにも行きました。三人共童心に帰ったり気に入った絵を買ったり、「多すぎる」と言いながらレストランで様々な料理を堪能したり・・・。
行きかえりに乗った飛行機はANA、ジャンボゼットでした。しかも二階席に席をいただき(普通より広い席でした)、コックピットまで入らせてもらいました。
今ではそんなこと皆無でしょうね。9.11の後、様々に変わりましたよね。
母はよく言っていました「三人で旅できてどんなに嬉しかったか」と。戦前、いや大正生まれの母には海外へ旅するなどと言う発想はなかったと思います。最近では、知り合いは娘がニューヨークで出産だ、ロンドンで・・・などと言いながら世話しに出かけています。日本では実家に帰って出産、ということが当たり前みたいに言われていますし、母親が面倒を見るのが当たり前みたいに考えられていますが、海外ではそれは絶対にないでしょう。知人がロンドンへ2か月の予定でいく、なんて言ってましたが、先方さんのイギリス側の家族には笑われる、嫌がられるのでは、と思ってしまいました。
海外に一人で出かけたこともなかった母が私がお産、だからとノルウェーにやってくるはずもなく、病院から帰るとすぐに夫と二人で娘の世話をしていました。同じころに出産したノルウェーの友人たちも最初の1,2か月は本当にたいへんだったと言っていました。
横道にそれましたが、母が次に出かけたのはタイでした。
そして、計、八か国、オーストラリア、シンガポール、マレーシア、韓国、中国(三回)、台湾にも出かけました。
オーストラリアではシドニーの植物園にも行きました。どなたかその植物園に行かれましたか?日本とは全く違った時間のルールがあったのに気が付かれましたか?
世界では日本とは違う閉園のルールがあるっていうことを誰が想像したでしょうか?閉園時間の知らせを気を付けてみていなかった我々が悪かった。それは確かですが。
母と妹は花に目がない。彼らが花を見だすと止めどもない。時間を忘れてしまうのです。問題はバラ園でしたか、特に時間がかかってしまったのです。バラ園に行きついたころには、他に数人の子供たちがそのあたりで遊んでいたし、他の人たちの声も聞こえていました。
が、あたりが暗くなり始め、日が沈みかけた途端、急に人影が見えなくなってしまったのです。声も聞こえなくなってしまったのです。そこには静寂の薄暗さがどんどん広がりつつありました。
この国では閉園時間は日没時、それがそんなに早くやってくるとは!
園から出なくてはならない・・・。しかし、いくつも見えていた出入り口はどこもすでに閉まってしまっていました。私たちは様々なことを考えました。
私たよりはるかに高い鉄柵を何とかして乗り越える?
私たち若者(?)がかりにできたとしても、母は無理か。
じゃあ、次の日の朝までその辺で野宿をする?
次の日は帰国の途に就く日でした。だから、それはあまりいいアイデアではありませんでした。
柵の外は車道で多くの車が絶えず走り去っていました。大声を出しても聞こえるはずもなかったのです。
などなどと考えながら、とにかく出口を求めて我々は歩きました。
とちゅう反対方向からやってきたオランダからの夫婦やら数人の同じ目にあっている人たちにも会いました。反対方向からやってきた、と言うことは、私たちが向かっている方向にも出口はないということではないか!
まるで迷路の中にいるような気分でした。
どれくらい歩き回ったでしょうか。二十分も歩いた?そうこうしているうちに、うっそうとした木立の向こうの方に車の光が刺して見えました。それは私たちの方にだんだん近付いて、やっと私たちは救助された、と思ったものでした。救助と言うのはちょっとオーバーだったでしょうか。
しかし、その車はレスキュー車と呼ばれていたのです。と、言うことは、毎夕,私たちと同じ目にあっている人たちがいる、というわけではないですか。
まあ、そんわけでは私たちはレスキューされて次の日に無事に帰って来ました。帰りの乗り継ぎ地ケイアンズではアンケートに答えてテディベアーをもらったり・・・。
母は私たちと一緒にいるということで大安心していたと思います。
この数年、実家を訪れるといつも一度は旅行がどんなに楽しかったか、という話がありました。母が旅立つ時にも数枚その旅の写真もお供をしました。いい思い出を作ったこと本当に良かったと思っています。