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坂村真民さんの詩 「心構え」

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「心構え」 1月2日

これはまたなかなか難しい崇高な詩だ

私は今まで時の流れに任せて漫然と生きてきた
でも世の中には真民さんのようにしっかり前を見て、人生を無駄に過ごさぬよう生きている人がいる。

こういう人を人生の成功者といい
そういう事を意識して生きる事が人間としての後悔しない幸せな生き方につながるのだろう。

私はどういう生き方をして来たのか
今どういう生き方をしているのか
次にどういう生き方をすべきなのか
明確に答える事ができなければ、人間として生まれて来た甲斐がない
ただ生きているだけならゴキブリやネズミだってやっている (と言われている気がする(^◇^;))

強い信念のある言葉だ!

いや今からでも遅くはない
漫然と生きるのはやめよう!(キッパリ( ̄^ ̄)ゞ)

そのために、、、、!!

ちょっと話は変わるけど「感謝」という気持ちは非常に体と心に良いらしい

そして「ありがとう」という言葉!

「ありがとう」というのは仏教で言うお釈迦さまの「盲亀浮木のたとえ」という話しからきているそうだ

ある時お釈迦様が弟子の阿難に尋ねた
「広い海の底に目の見えない亀がおり、その亀は百年に一度、海面に顔を出す。
そしてその海に、真ん中に小さな穴の空いた一本の丸太ん棒が漂っているとする。

百年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、その丸太ん棒の穴に、ひょいと頭を入れ顔を出すことがあると思うか」と問うた。

阿難は、「無いとは言い切れませんがほとんどないに等しいほど有り難い事です」と答えた。

するとお釈迦様は、「そう人間としてこの世に生まれてくるというのは、その木の穴から盲目の亀が首を出すのに匹敵するくらい、いやむしろそれ以上に難しく「有り難い」事なのだよ」と教えた。

「人」として生まれたことすら「有り難い」事なのに、増してや人から何かしてもらうと言うのはもっと有り難いことなんだよと。

そのように「有り難い」というのは有ることが難しいこと、滅多に無いこと、その有り難いがなまって「ありがとう」となった。

今まで「ありがとう」といかに言ってもらうかという事を考えていたが、それより「ありがとう」を見つけて言うことの方が大事なことなのかもしれない

今食べているご飯。良く考えれば
誰が作ってくれたのか
どんな苦労をして栽培してくれたのか
肥料を作ってくれた人もいるし
水の世話にもなっているし
ここまで運んでくれた人もいる
家も服も、食器も家具も、、、、、全てがそう。

その人たちのおかげ
その他にも意識しないところでとても多くの人やモノにお世話になっている

ありがたいことだ

いつも「ありがとう」に気付ける自分になろう!

又話は変わるが歳をとると体力が劣ってくる
最近「きくち体操」というのを知った
例えば足の指と手の指をしっかり奥まで絡めぎゅっ握る
(やってみて、初め痛いよ〜!😊)
なんと足の指を鍛えてないことか(^^;;

この人はすごい!良い事を教わった。
体はまず足から弱ってくるそうだ
だからまず自分の足の裏に感謝すること
いつまでも歩ける体にしておかないと歳いってから困る。

なるほど!

足の裏くんありがとう!
感謝しますm(_ _)m

あれ?!なんか話しずれたσ(^_^;)

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