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「砂上の楼閣」と「無料の罪悪」

ふと思い出したことがある。

社会人2年目くらいのことだったと思う。学生時代の友達から「上司が勉強会を開催するから来ないか?」と誘われた。その日は特に用事もなく、職場のすぐ近くだったので、断る理由もなく何気なく参加することにした。社会人になってから「勉強会」と名のつくものに参加したことがなかったので、どんなものか見てみたい、という気持ちもあった。

綺麗な会議室に、15人くらいが集まった。私を誘った友人と私が25歳とダントツに若く、あとは30代から40代前半くらいの方が中心だったと思う。業種はバラバラだった。

自己紹介が終わった後に、主催者が会の主旨を説明するためのプレゼンをした。箇条書きにすると、

・今の日本は元気がない
・日本が元気を取り戻すためには学生が元気にならなければならない
・だから無料の学生向けのセミナーをやろう

という内容だった。

この箇条書きされた内容を読んで、どのように思われるだろうか?私の率直な感想は、「意味わからん」だった。

どの点において日本は元気がないのか、どこをどう変えなければならないのか、どうして学生にアプローチするのか、イベントで学生はどんなことを得られるのか…これらに関する説明が一切なかったのだ。次から次へと疑問が湧いてきて、何から質問していいのかすらよくわからなかった。

一方で、主催者が一人ひとりに、上記の内容についてどのように思うか、ということを聞いて回った際には、誰しもが「素晴らしいですね!」「ここにいる人たちならば、面白いことができそうですね!」と口を揃えて回答していた。

こんなロジックスカスカの説明を聴いて「素晴らしい」しか言えない人が集まって、面白いことができるわけないだろ…と呆れていたのが顔に出ていたのだろう、主催者はなかなか私に意見を求めなかったし、私もなんならこのまま一言も発言せずに帰りたいと思っていた。

しかし、とうとう私の番がきてしまった。主催者が「渡辺さん、どう思いますか?」と私に意見を求めたのだ。

私はこの時にどのように返事をするのがよかったのだろうか…今でも正直よくわからない。この文章を書きながら、改めて考えてみているが、もっとうまい返答があったのではないか、と思わずにはいられない。

私はとっさに、

「皆さんのおっしゃっていることがよく分かりません」

と答えてしまったのだ。

会場の空気が一瞬凍りついたのがよくわかった。皆さんは経験あるだろうか?空気は、ほんの一瞬だけ、凍りつくことがあるのだ。

やっちゃったなー…と思いながらも、言ってしまったからには引き下がれないので、とりあえず、

「そもそも日本のどういったところが悪いと考えているのか不明瞭なので、それなしでその先の議論を進めても砂上の楼閣ではないか」

という主旨のことを言ったように記憶している。

それに対する明確な回答は誰も持っていなかった。「ほら、でも日本は元気がないでしょ?」のようなフワッとした内容で、参加者全員が私を説得しにかかった。大変居心地が悪かった。

しばらくして私は会話の輪から外されたのだが、その後も「無料で開催する私たちは偉い、学生たちは感謝するべきだ」のような発言が主催者から出ていて、さらに私はあきれ返るのだった。

「無料で提供しているのだから、感謝されるべきだ」というスタンスが私はとても嫌いだ。そもそも無料のイベントだろうがなんだろうが、そんなイベントはそこにいる人たちが勝手に開催するものだし、もっと言えば「日本を元気にする」という大義名分だって、結局のところその人たちが好きで掲げているだけだ。さらに、感謝というのは、強要するものではなく、本来自発的なものだ。「感謝しなさい」ほど傲慢な言葉はないだろう。

その学びの一切なかった勉強会は終わり、もちろん私は懇親会に参加することなく帰るのだが、帰りしなに、参加者の1人が私に駆け寄って、名刺を渡しながら、

「私も全く同じこと思ってたんですよ、会に参加したのは繋がりを作ることが目的だったんです」

とわざわざ声をかけてきた。最後の最後まで、気分の悪くなることばかりだった。

私は今でも、この名刺を渡してきた人の顔と名前と会社名を覚えている。

話はここで終わり。

もう7年ほど前になるこの出来事をふと思い出したきっかけは、「無料」と「感謝」が対になって使われているのを、たまたまあるところで目にしたからだ。

私は記事を無料で書いている。noteは記事を有料にすることができるようだが、私は今後も記事を有料にすることはないと思う。

その理由は、私の発信している情報が有益なものかどうかはさておき、私は「文章を書きたい」と「誰かに読んでほしい」という理由のみでnoteに投稿をしており、そのどちらも私の単純な欲求だからである。前者は表現欲、後者は承認欲求あるいは自己顕示欲だろうか。他者のためにnoteに投稿している意識は一切ないため(文章をなるべく読みやすくしたい、という気持ちはあるが、それは表現欲に包含されている)、無料にしているのは当然だ。そして、このような理由で書いているわけだから、感謝してほしいとも思わないし、批判されることも覚悟している。

他の人の発信(note以外も含めて)を見るにつけて、だいたいのものが私と同様、上記2つの理由により書かれていると感じる。そういったものの中に、「無料」と「感謝」が隣り合っているものを見つけて、あの日の凍った空気や、居心地の悪さ、最後に名刺を渡してきた人…それらのことを思い出してしまった。

ここまで色々書いてきたが、もしかしたら私はあまりにも斜に構えすぎているのかもしれない。その上以前もこの記事で書いた通り、私は偏屈で頑固ときている。もう救いようがない。

こんな救いようがない私ですが、もしよかったら、これからも記事を読んでくれると嬉しいです。斜に構えた、偏屈で頑固な記事を、コリコリと書き続けます。

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