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今年、会社を支えてきた二人が亡くなった。5月には専務の小瀬川陽子さん、12月には会長の小瀬川小弥太さん。二人は兄妹だった。
専務 小瀬川陽子
5/15(水)、陽子さんが亡くなった。享年85歳。八代目 小弥太さんの妹で、私にとっては大叔母だった。
一般的には叔母が身近にいる事は少ないと思う。大叔母ともなれば更に。ただ、陽子さんは私の小さい頃から今まで、ずっと近くにいる存在だった。
まだ大学進学率の高くなかった1960年代、進学できるほど秀才だったが、兄 小弥太の頼みから家業に入り、60年以上会社に尽くしてきた。
住んでいる家は私の実家の小弥太家とは別だが、結婚はしておらず、私が子どもの頃から、晩御飯はだいたい一緒に食べていた。独身の理由は気になっていたが、子供ながらに聞くことは良くないような気がして、遂に結婚しなかった理由は聞けなかった。
亡くなってから分かったことは、会社のため、仕事を優先して結婚できなかったということ。
お陰で強烈な子ども好きで、映画館や水族館、スキーなど、孫世代の私にも随分お金を使ってくれた。というかもはや過干渉のレベル。私が家を新築したときには、毎週のように差し入れを持って来た。電話もしょっちゅう。そして曾孫(私の息子)には、お昼寝時間に起こしてでも会いたがっていた。
そんな調子なので、「こっちも忙しいんだよ」「いちいち口出ししないで」など、ひどい態度や言葉をかけたこともあった。
それでも少しずつ体調が悪くなっているのは分かっていて、最期の方には息子と何度か遊びに行って、一緒の時間を過ごした。そして入院して数日で逝ってしまった。遊びに行ったとき「一緒に撮った写真を見せてね」と言われ、持っていくと約束したのに。ありがとうと伝えたかったのに。5/15(水)14時にお見舞いに行く準備をしていた矢先、午前中のことだった。
自分がいかに愛情を受けていたか、どれほど頼りにされていたか、存命中には全く気づかなかった。そして陽子さんの会社へかける気持ちも、分かっていなかった。
ただ仕事熱心なことだけは伝わってきた。頭の中はいつもお客様のこと。会社で社員旅行に行ったときは「◯◯様に必ず顔を出してきて」と言われたし、入院直前の体調がひどく悪化していた時でも「◇◇様の入札は大丈夫?」と連絡をくれた。
毎日毎日、車で遠方まで出向き、鮮やかな袢纏を着て、元気に営業していた。
会社を守るため、お客様のため、闘病しながらも気丈に振る舞い、自分の全てをかけていた。
会長 小瀬川小弥太
12/1(日)、小弥太さんが亡くなった。享年91歳。私の祖父で、小さい頃からずっと一緒にいた。
私の両親は毎日遅くまで働いていて、学校から帰ってきて晩御飯を食べ終わるまで、いつも小弥太さんと良子さん(祖母)が一緒にいた。
小弥太さんは雷親父で、何かにつけて怒鳴っていた。会社で従業員を怒鳴るのはしょっちゅうだったらしい。そして家で雷が落ちるのは、料理が不味かったときとか、良子さんから小言を言われたとき。マヨネーズをかけすぎて「カロリー摂りすぎ」と言われると、いつも「うるせ!」と大声を上げていた。
ちなみに私の父の弘樹さんは子どもの頃、毎日のように怒られて、たまに両手両足を縛られ蔵に投げ入れられていたらしい。
小弥太さんの雷エピソードは山のように聞いていて、私が高校生のときのイメージは、頑固でやかましい雷親父だった。
ただ私が海外留学に出発する日、見送りなんてしないタイプだと思っていたのに、玄関まで見送ってくれた。そして、何も言わずハグしてくれた。
あのとき私はまだ大学生で、家族への恥ずかしさもあって、特に何も感じなかったが、会社に入って色んなエピソードを聞いてから、どんどん印象が変わっていった。
50年以上の取引がある会社の社長様からは、「モノを作れる会社がなくて困っていたところ、50年前当時で3,000万円もする設備を、急いで手配したから作りますと。仕事にかける想いに尊敬する」。
会社の役員でずっと小弥太さんと仕事をしてきた方からは、「会長がエクスラン(※1)の染めに挑戦して、何度も失敗して、何度も試行錯誤して、遂に上手く染め上がったとき、涙を流して『ありがとう』と言ってくれた」。
(※1:アクリル繊維。綿生地に比べ、風抜けが良く耐久性が高い。染めるには特殊な方法が必要になる)
弘樹さんの結婚式で仲人を務めた方からは、「結婚式場との打ち合わせでは、ただ黙って良子さんの案を聞いて、ニコニコされていましたよ」。
仲の良かったリンゴ農家の友人の方からは、「いつも笑顔だった」。
私が抱いていたイメージと実際の姿は全然違った。
仕事ぶりも、染め屋としての姿勢も、外での顔も、家族への想いも、亡くなってから知った。
そして体調を崩す前まで、私が戻ってくる2020年の直前まで会社に顔を出して、「会社は雄太とやるんだ」と言っていたと、弘樹さんから聞いた。
葬儀場で
二人が納棺される前日の夜、全然寝つけなくて会いに行った。どちらも晩年はテレビを見ていることが多かったから、テレビを点けた。いつもNHKの地上波かBSだった。
陽子さんのときは、青森県佐井村の牛滝地区で、神楽に憧れる女の子を追ったドキュメンタリー。ただその神楽は女人禁制で、継ぎ手がいない中でも伝統を守るか、新しいやり方を取り入れるか、神楽の方向を模索していた。
小弥太さんのときは、ファミリーヒストリーで俳優の竹内涼真さんのルーツを辿っていた。涼真さんのお爺さんもお父さんも元々は俳優志望で、その夢が子の代で叶っているという内容だった。
・・・奇しくも、いま会社の置かれている状況とリンクしていた。新規事業で郷土芸能の未来を支えようと動き出している。私は小弥太さんの夢を聞いて、それを叶えると本人に約束した。
夢
12/14(土)、私はラジオで小弥太さんの夢、ひいては私の夢を語った。「花巻まつりで会社の神輿を出したい」と。
これまで神輿を出したことはない。担ぐには最低50人は必要で、社員数は多い時期でも20名くらいだったから、出せる余裕はなかっただろう。会社のある愛宕町では町内会の神輿があったが、それも人手不足でやらなくなってしまった。
これから神輿を出すにしても、人集めから運行までやるにはかなり大変になりそうだ。
正直、なぜ神輿を出したかったのかは分からない。でも小弥太さんがその夢を胸に抱いていたと弘樹さんから聞いた。そしてそんな小弥太さんのもとで、陽子さんは生涯をかけた。
なら私は、その夢を叶える。
今年一年で、長い間会社を支えていた二人がいなくなってしまった。でも会社は倒れない。二人の想いが柱になって、これからも支えてくれる。