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雑文「仕事」

「常に仕事をしなければならない」
 とは、ロダンの言葉とされる。日々仕事に疲れている人にとっては堪らない話だと思うし、そりゃあロダンのような立派な彫刻家なら定めし仕事のしがいもあるでしょう、と思う向きもあるかも知れない。

 だが果たしてロダンがこねこね彫刻をこしらえている時間だけが仕事なのだろうか。彫刻をつくる前には着想を得る段階があるだろう。その着想を得るためには何かの芸術に接したり、あるいはお散歩したり、人と話して何かを感じることもあるかも知れない。それは仕事のためであると意図しなくても、である。言ってしまえば、日々の生活のうちの大部分がすなわち仕事なのである。

 それは他の人々にとっても同様である。仕事に疲れたと言っては休み、休暇には息抜きをして気持ちを新たにしてまた仕事に臨む。仕事をするために休んでるのだから、これもまた仕事である。なぜそこまでして仕事をするのか。無論、生きるためである。人は生きるためであらばこそ、働くのである。

 言い方を変えると、生きることと逆に向かう行為は、仕事ではない。仕事があなたの精神を圧迫して生きる力を失くさせるようなものであれば、それも仕事とは言えない。逆に言えば、生きる力を失くさせるようなものから離れる行動、それは生きることであり、仕事である。

 仕事とは生きることであると同時に、ある面ではお金を儲けることでもある。しかし生きることイコールお金を儲けること、という混同をしてはいけない。お金とは違う方向に進んでいったとしても、あなたが生きようとする事そのものが仕事なのだ。

 もしかすると、あなたが生きようともがいて何かをし始めようとする時、それは仕事ではないと止められることがあるかも知れない。しかしなんと言っても生きようとすることが仕事なのであって、そこに他者が介入する余地はない。それはどんなに親しく近い間柄であっても、親であっても同じだ。

 あなたが何かに接すること、どこかへ訪れること、何かを感じること、それを表すこと、何かに入っていくこと、あるいは出ること、逃げること、どうしようもなくなった時に何かを傷付けること、再生すること、人に近づくこと、離れること…これらは全て生きるための営みなのであり、全ては仕事である。これらを否定することは誰にも出来ない。生きようとすること、その決断をした自分を誇りに思うべきだ。

 そしてあなたがこれらの仕事を成す時、それを肯定してくれることを受容、それを否定しようとするはたらきを排斥、そうわたしは呼ぼうと思う。この「排斥」が無くならない限りは、人が抑圧されて生きる力を失い、それによって引き起こされる様々な問題は無くなることはないだろう。

 わたしは、そういった受容と排斥について何かを書こうとしている。といっても、排斥が表現されたものがおそらく半分以上にのぼる。しかしそれによって、同じような抑圧に対峙している人が共感してくれることを願って、受容についてと同じように書くのである。

 かのフォークシンガー、ウッディ・ガスリーは「フォークシンガーの仕事とは、不安な人々を安心させ、逆に安穏としている人々を動揺させることだ」と、言ったという。

 そんな文章が書けたらいいなと思う。
 
 
 
 
 

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