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今こそ、二宮金次郎。

こんにちわ。渡辺です。 

今年の夏は本当に暑かったですね。ようやく秋の気配を感じる季節になりました。

私の出身地は栃木県日光市。秋の紅葉を楽しみに日光に来られる方も多いのではないでしょうか?

では、日光をご存知の方で日光の麓にある宿場町「今市」を知っている方はいらっしゃいますか?
実は、ここ今市はだれもが知っている偉人のゆかりの地なんです!

それが、「二宮金次郎」です。多くの方が下のような石像を見たことがあると思いますが、一体何をした人なのか知っている人はどれくらいいるでしょうか?

今回はこのお方についての記事です。


金次郎の誕生。

突然ですが、ここでクイズ!
この二宮金次郎さんのご家族の仕事は以下のどれでしょうか?

  • 百姓

  • 武士

  • お役人




正解は・・・

百姓!!!


金次郎の生涯。

簡単に彼の人生を紹介します。
二宮金次郎は現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれました。
割と裕福な農家だったそうですが、金次郎が5歳のとき、台風の影響で川が氾濫し、家は濁流で流されてしまいました。家族は無事でしたが、この氾濫のせいで田んぼの大半を失ってしまいました。その後開墾に従事して田畑を取り戻すも、家計は厳しくなっていったそうです。
さらに、早くから両親が病気を患ってしまったため、金次郎は14歳の頃から夫役に従事しながら、朝から薪を取りに山へ出かけ、夜は草鞋作りに励んでいたそうです。そうすることで、家計を支えていました。

私たちがよく知っている金次郎の石像はこの頃のイメージでしょうか。

あ、ちなみに映画もあるので、すでに二宮金次郎について気になっている方にはこちらもおすすめです。


そして、16歳にして両親を亡くしてしまった金次郎ですが、災難なことに同じ年に川の氾濫のせいで土地を全て失ってしまいます。それを機に、金次郎は祖父の家に身を寄せることになりました。
祖父の家に身を寄せてからも昼は農業に励み、夜はもっぱら読書をしていたそうです。しかし、当時の照明は当たり前ですが蝋燭の火、これについて「燈油の無駄使いだ!」と祖父に嫌がれることもあったそうですが、金次郎は策を講じてアブラナを育てて菜種油を取って燈油としていたそうです。すでに頭の良さを感じます。(笑)

その後も親戚の家を転々とし、名主である二宮七左衛門方に寄宿。1806年、金次郎が20歳の年には生家の復興に着手し、25歳のときにはそれを成功させたそうです。その後小田原藩の財政を立て直すなど、確かな実力でその名も知られるようになりました。

と、ここまでの内容だけでも「金次郎ってそんなすごい人だったんだ!」と思う方も多いと思います。

こちらは、私の実家の近所にある「二宮尊徳記念館」の二宮金次郎像。

あれ?二宮“尊徳”って別の人?

金次郎は、小田原藩での活躍の後、武士の位を授けられ二宮尊徳という名前になりました。
皆さんが知っている金次郎とここに座っている二宮尊徳は同一人物なんですね。
鍬と刀と本を持っている姿がとても印象的です。

ここから尊徳さんと呼ばせていただきます。笑

1821年、尊徳さんが35歳のときに小田原藩に下野国芳賀郡桜町の復興を依頼されます。現在の栃木県南東部辺りになりますが、約10年で復興に成功し、ここで「報徳仕法」を確立させます。但し、復興政策はもちろん全て上手く行ったわけではなく、村人からの反感もあったようです。

報徳仕法(ほうとくしほう)とは?
日本近世の文政年間以降に二宮尊徳が主導した財政再建策の総称。
藩や旗本知行所など領主財政を対象としたもの、村を単位としたもの、家を単位としたものの3種類に分けることができる。
基本的な考え方は、報徳思想の基本的な概念でもある「分度」と「推譲」である。それぞれが「分」に応じた生活を守り、余剰分を拡大再生産に充てることの重要性が強調される。(Wikipediaより)

その後も各地で村の復興を手掛け、いよいよ1844年、尊徳さんが58歳のときに日光山領の仕法を命じられます。当時4分の1が荒廃していたという日光ですが、尊徳さんは3度の病気を患いながらも体の限界まで現地を見て歩き、まちの人の声を聴き、復興に尽力してくださったそうです。

とくに私の実家周辺の農業用水路はその当時の開発の名残で今でも「二宮堀」と呼ばれています。現在はその価値が再注目され、地元高校生のクリーン活動で清掃が行われたりしています。

今の日光、そして地元で豊かな農作物が育つのも二尊徳さんのおかげなんですね。

尊徳さんは、このようにして、小田原藩を中心とする600を超える農村の復興を見事成し遂げたそうです。そして、現在の栃木県日光市今市でお亡くなりになりました。享年70歳でした。

金次郎の想い。

資料館でさまざまな資料や映像を見てきましたが、一番感銘を受けたのがこの言葉。

功績は前途した通りですが、そのときに彼が大切にしたことのひとつが農民の「心田開発」。

まさに二宮尊徳先生の真意が表れている表現だと思います。
荒れた土地を耕し新田をつくるには、技術・体力をつけることだけではなく、何よりも先に人々の「心の豊かさ」を耕さなければいけないということ。
救済を待つ農民に対して、一人一人に尊厳を与え、施しだけでなく働く動機や考える機会を与えて、生きる生きがいを与えるということでした。

何事においても、GIVE&GIVEですね!

如来寺。二宮尊徳先生の葬儀が行われた浄土宗の寺院です。

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