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「トリブバン空港で達磨さんは転がり落ちた」

「ネパールで柔道やっているダルマに会いに行ってほしい」

 大学の先輩の謎の指令に、僕は「いいえ」と言えず、致し方なくネパールに来た。とりあえず僕はネパールに行ってダルマという人にお世話になるらしい。

 お世話になる人に気に入られるためにもお土産を買っていくべきだと思い、日本で達磨を買った。ダルマは空港で僕を迎えに来てくれる段取りだった。人との出会いはファーストインプレッションが大事だと考え、空港でダルマと出会った瞬間に「これは日本からのお土産です。日本で“だるま”って言うんです。あなたと同じ名前ですよ。よろしくお願いします。」って言ってしまおう。
 
 そうすれば、ダルマも「よくネパールに来てくれたな。心配するな。ここから俺が案内してやる」頼れる兄貴のように親しくなれるだろう。

 これから始まるネパールの旅は完璧だ。飛行機の中でテンションを上げるためにもワインを2杯も飲んだ。そして何度もダルマと出会った時のシミューレションをした。

 ネパールのトリブバン空港に着いた。
 
 飛行機を降りた瞬間にお香の焦げたような匂い。そして聞き慣れぬ破裂音の多い異国の言葉。初めての海外の高揚感と、未知な国を進む怖ろしさで、ふくれ上がるような、心臓の音が聞こえる。

 周りに日本人らしき人は一人もいない。ここからは頼れる人は一人もいないのだ。でも大丈夫。自分にはまだ会ってはいないがダルマと言う人が助けてくる。一刻も早くダルマに会わなくては。

 先輩から借りたバックパックがベルトコンベアを流れてきた。よかった。荷物の紛失もしていない。 

 達磨を準備しよう。
 バックパックから達磨を取り出すと見事に粉々に壊れていた。

 嘘だろ。一瞬、虚を衝かれたように、ガヤガヤうるさかったトリブバン空港に沈黙が落ちた。しかも縁起悪いことに、達磨の顔の中心から無惨にも割られている。ダルマとの親睦を深めるためにも前持ってこれだけ準備をしたのに、僕の計画が一瞬にしてパーだ。

 達磨はなかったことにしよう。お土産なんていらない。こうなってしまった以上この現実を受け入れない先に進めない。粉々の達磨は空港で捨てて、空港の外で待っているダルマの元へ向かった。
 
 しかしダルマが空港で迎えに来てくれるはずだったのに、空港の外にはダルマらしき人はいない。そもそも自分も先輩からダルマが世話をしてくれると言っていただけで、誰がダルマだか分からないのだ。

 大勢のネパールの人たちが空港で迎えにきている中で一人「YUSUKE」と書かれたダンボールを持っている華奢な女性がいた。私の先輩から聞いている事前情報ではダルマはネパールで子供達に柔道を教えている先生だ。あんな華奢な女性が「ダルマ」なはずがない。

 ただあたりを見渡してもYUSUKEに該当する人は自分しかいない。日本人っぽい人なんて一人もこの空港にいない。ただあの華奢な女性がダルマなはずがないのだ。

 これはなんだ?海外では新手の「YUSUKE詐欺」と言うものがあるのではないか?1980年代生まれにゆうすけと言う名前はありふれた名前だ。空港でYUSUKEと言うボードを掲げれば、一人はYUSUKEと言う名前の人がきて、声をかけたら、誘拐されて身包み剥がされてしまうのではないか。初めての国、猜疑心が自分の目に覆い被さっている。そして自分を助けてくれるはずのダルマはどこにいる?

 空港の外と中をでたり入ったりした。本当に自分はここでいいのか?どうすればいい?だが、このままでも何も始まらない。僕は意を決して「YUSUKE」と言うボードを掲げている女性に話しかけた。
 
 「私はゆうすけって名前なんですけど、、、」

 「あなたがゆうすけですか?私はダルマの友達です」

 この女性はダルマではないが、ダルマの関係者らしい。

 「あのね、ダルマはね。昨日からひどい病気にかかっちゃってね。代わりに私が来たの」

 ダルマは病気にかかってしまったのか。でも、それは僕が達磨を粉々にしたからだろうか。幸先悪すぎる。壊れてしまう可能性のあるものに人の名前をつけるべきではないことを学んだ。

 「とりあえず、あなたはこれから私たちの孤児院で暮らすことになっているから今から行きましょう」

 大丈夫なのか?僕が孤児院で暮らすなんて話は一度も聞いていない。詐欺ではないだろうか?ところで…ダルマとは一体誰なんだ?

 僕は車に乗せられて、孤児院という場所に向かっていった。



 それから14年の月日が経った今でも、人生で初めてネパールに足を踏み入れた1日目のことは鮮明に覚えている。思い返すと僕はネパールでの初めの1歩目から足を踏み外していた。ネパールなんて未知そのものでしかなかったのに、それからなぜかネパールが好きになり、住むようにまでになった。

「古屋さんのネパールの暮らしってめっちゃ大変そうだけど悲壮感がないですよね」この前昔の知人からインスタのDMでこんなメッセージが届いた。

「悲壮感がない」ってこのフレーズは僕の生活を肯定的に捉えているのか、否定的に捉えているのか一瞬迷った。ただ誰かが笑ってくるのならば、僕のネパールの暮らしっぷりを何かにまとめてみようと思い書き出したものである。

 ネパールの観光ガイドブックの類の本はいくらでもある。ネットで調べてもでてくる。しかし僕が書いているのは観光の足しにもならない場所だ。だけれど、僕にはこの場所にいくと「あの時の」っていう思い出がよみがえってきて、湯気のようにしっとりと胸を温める。

 「人生は思い出の数がどれだけあるかが大事なんだよ」

 誰だったか忘れたけど、ある時ネパール人の友人が言っていた。ここネパールでの思い出の数なら腐るほどある。今後、僕の人生がどうなるかなんて誰にも分からない。ネパールで暮らすつもりだが、もしかしたら日本にいるかもしれないし、他の国にいるのかもしれない。生きているか、はたまた死んでいるのか。

 それでも思い出だけは僕の中から消えることがない。僕が歩いたこの景色とこの思い出が、皆様の心に一つでも刺さるとあれば嬉しいのこの上ない。

                            古屋 祐輔

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