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インクルーシブの表現と、「自分なりの表現」

こんばんは。30日毎日投稿、本日3日目です。

今日は、朝ばたばたしていて時間がなかったので、夜に記事を書いています。そう、つい先程まで、東京オリンピック2020の閉会式がやっていていました。

それを踏まえて、、、少しセンシティブな領域でもある??のかもしれませんが、自分なりに最近気になっていたことを言語化してみようと思います。

インクルーシブとか、多様性とか

今回のオリンピックでも大切なテーマでもあり、世界中のメディアでも重要視されているところかと思います。

ジェンダー、身体障害、出身、生い立ち、価値観、様々な意味合いで、誰一人取り残さないようなインクルーシブさの大切さが、とても強調されていると思います。

無意識のうちに偏見を持ったり、誰かを排除したり、そういうことがないように、そしてそういうことを少しでも減らしていくために、多くの人が目にするところでそういった啓発を行ったり、メッセージを発信したりすることは大切だと思います。

うん、もちろん大切だと思います。

ただ、それだけに偏る、ということにも、なんだか違和感を感じてもいます。多様性への配慮をしていることを伝えるための手法が、何か多様性が制限されるというか、みんなが簡単に分かるようなやり方に制限されていくというか。

インクルーシブな視点を持つことはとても大切だけれど、常にどこでもそれを実施し続けることにも限界があると思っていて。あくまで大前提であり、それを大切なところでは必ず共有し認め合うことが大切なのであって、それを表現しなかったときに叩いて良いとか、大事にしていないとか、そういうことではないんじゃないかなと思います。

わかりやすいことの弊害

似たような話で、「分かりやすさ」を過度に求めるような風潮もあるのかもしれないと感じています。わかりやすいことがあるからこそ、「そうであること」と「そうでないこと」がはっきりするような感じ。

たとえば、SDGsのバッジをつけているか、つけていないか。それはわかりやすいけれど、その分かりやすさだけで、どれほど本当にSDGs的な文脈で活動を行っているかは、なかなかバッジだけではわからないと思います。

式典でインクルーシブを発信したとしても、本当に一人ひとりがそれを実践できているかは別問題だと思います。

社会課題を解決するストーリーがわかりやすいものに、人は集まる。わかりにくことは、敬遠されがちであり、ときに否定されがちなのかもしれません。

時代の流行りのように、キャッチーで分かりやすい表現は、人に伝わりやすい側面があるものの、「そうでないもの」を排除していくような風潮には気をつけないといけないよな、そんなことを思ったりしています。


ちょっと、今日は抽象的でふわっとした話になってしまいました笑。
ただ、Colorbathでの活動において考えていることというか、プロジェクトを通して表現したいなと思っていることでもあったので、改めて言葉にしてみました。

オリンピックの関係者のみなさん、アスリートのみなさん、感動をありがとうございました**
次は、パラリンピックですね!


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