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移住者にとって、17時からの売店前がコミュニティーの場で大きな役割を持っていて、そこから始まったコトの話

宝島のリアルタイムな情報を得るために、僕は売店の前に通っていた。宝島には、コンビニも、スーパーはない。宝島売店は、島唯一の「お店」だ。17時に開く売店の前では、「常連さん」がいた。その中には宝島の実務を取り仕切る出張員の哲也さん、高齢になった母親と生活していた豊美さんもいた。高齢者の情報を得るためでもあった。僕は、壮年層と高齢者層の間に、何となく壁のようなものを感じていた。だからこそ、高齢者がいない場で、あえて高齢者のことを聞いたり、話したりしていた。あんまり爺様や婆様の話ばかりするから、「ジジババがそんなに好きか?」と笑われていた。

「来るもの拒まず、去るもの追わず。」

また同じ時期に、人口対策を打ち出し、U・Iターン者が移り住んできていた。十島村の中では、移住しやすいと言われる宝島。「来るもの拒まず、去るもの追わず。」とは言われていても、それは「Welcomeな雰囲気」というわけではない。それは、僕が移住するまでも、何人もの「移住者」が「通り過ぎて」行っていた過去があった。親身になって、色々なことを教えたり、協力したりしても、様々な理由で島を去る者も少なくなかった。だから、このころの宝島の島の先輩方は、応援してくれる方はいながらも、「いつまでいるんだい?」と、新参者のお手並み拝見といった雰囲気があった。

そんな現状がありながらも、当時の自治会長、僕らが初めて泊まった民宿の直志さんの強力なリーダーシップにより、移住者は増えた。島の人、地域で信頼されている方の応援や後押しは、心強く、強力だ。色んな事情に精通している方だからこそ、厳しい意見ももらってきた。

移住当初、行政の支援制度として、IターンとUターンの待遇の違いがよく話題になっていた。Iターン者への待遇の方がよかったのだ。それは、「新しい風を入れたい」という行政の思惑も見て取れた。僕の立場も、はたから見れば、Iターンだっただろう。でも、当時の僕には役場側の側面もあり、Iターン優遇とも捉えられる制度への反発の声も島民から聞こえてきた。

だからこそ、同じ頃に宝島に来たIターンの方には、売店前に顔を出すことを勧めた。僕は、閉鎖的にも感じていたけど、当時の宝島の取り組みは、十島村の中では最先端だったと思う。タイムリーな話題から、これまでの宝島のこと、そして、これからの宝島のこと。そこの常連になったのが、特に同じ頃にきたIターンの竹内功さんだ。功さんは、風当たりの強い時期を乗り越えた戦友でもあり、移住者の兄貴的な存在でもある。

清吉さんにヤギ汁を食べてもらいたい

今でも大鍋を囲むときは、ほとんどの確率で功さんがいる。笑。19時に閉まってしまう売店の前で、語り足りないときは、自販機のビールを買い足して、語り続けたときに、当時宝島最高齢だった爺様が好きだって話から始まったのが「ヤギ汁を振る舞おう」

とは言っても、ヤギを肉にするところからだ。素人では簡単にはできない。生き物を頂くというのは、「気合」も必要なんだと感じた。できないことがあるから、島民に頼る。一緒に一つの作業に取り組み、「島の知恵」を学ぶ。そうやって、ひととなりを知り合い、「島民」になって行くんだと思う。

売店の前から、色んなアクションが生まれた。集落の真ん中でのヤギ汁で賛否両論あった。癖のあるヤギ汁は好みが別れる。「味付けがどうだこうだ。」「生姜を入れすぎだ。」と、色んなこと言われたり、聞かされたりしてた。「(善かれと思ってしたのに…)」と思うこともあった。

体が思うようになり動かなくなって、家からも出なくなってた清吉さんが、涙を流して食べてくれたことを心に残して前に進んだ。今でもヤギをみると、その清吉さんの顔と清吉さんの奥さんがヤギの給餌が大変だったことを、ボヤいていたことを思い出す。

当時のスタッフの状況

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