
医療保険を「二階建て」にすると日本の医療はどうなるのか?
日本は1961年に国民皆保険を達成し、それ以降ずっとこの制度を維持してきました。
日本の皆保険の特徴は、雇用に紐づいた形で保険が提供される職域保険と、どこに住んでいるかで保険が決まる地域保険を組み合わせることで皆保険を実現しました。
1961年の段階で、雇用されている人の多くは職域保険でカバーされていました。そこで残ったのが、自営業と無職の人たちでした。この人たちに、住んでいる地域に応じて国保(国民健康保険)に加入することを義務付けたことで、日本は皆保険制度を実現することに成功しました。
その後60年間にわたり、日本の保険制度はよく機能してきました。しかしながら、経済成長の鈍化や、少子高齢化の影響により、社会保障費の負担が増えてきており、医療保険制度の改革の機運が高まってきています。
日本には、数多くの医療保険があります。
自営業と無職の人が加入する国保は都道府県ごとに47個あり、主に大企業の従業員が加入する健康保険組合は1,383組合、主に中小企業の従業員が加入する協会けんぽは1個です。どの保険に加入していたとしても、病院にかかったときに受けられる医療サービスは同じで、医療費の自己負担率や高額療養費制度に関しても同一です。違うのは、保険料だけです。
つまり、すべての日本人は同一の医療保険に加入しているととらえることができます。このような制度のことを、「一階建ての医療保険」という意味で単一層式医療保険制度と呼びます。
しかし、国によっては「二階建ての医療保険」を採用しているところもあります。この制度のことを、「二層式医療保険制度」と呼びます。
二層式医療保険制度とは
二層式健康保険システムは、基本的な医療サービスを全国民に提供する基本保険(一階部分)と、追加のサービスや高度な治療をカバーする補完的な保険(二階部分)の2つの層で構成されます。
日本のような単一層式医療保険制度では、全ての人が同じ保険でカバーされます。これに対し、二層式医療保険制度には以下のような特徴があります。
長所:
個人の選択肢が増える
公的医療保険の財源負担が軽減される可能性がある
短所:
2階建て部分の保険に加入している人としていない人の間で、医療サービスへのアクセスに格差が生じる可能性がある
1階部分の医療保険のカバー(診療報酬に収載される医療サービス)を包括的にする政治的インセンティブが弱くなるため、基本保険のカバー内容が時間とともに弱体化する可能性がある。例えば、高額な抗がん剤などは、基礎保険ではカバーされなくなるかもしれない。
医療費全体が上昇する可能性がある。2階部分の保険が民間保険会社によって提供される場合、株主への還元、広告宣伝費、取締役の高額な給与などを保険料で賄うことになるため、国民が払う保険料の総額は高くなる。
実は二層式医療保険制度を取り入れている国は数多くあります。しかし、その中に明らかに失敗例があります。失敗した例では、公的医療保険制度が弱体化して、機能しなくなってしまっています。次は、二層式医療保険制度を導入した国の具体例を見ていきたいと思います。
その前に、各国の医療保険制度がどうなっているのか勉強しましょう。世界には、大きく分けて3つの医療保険制度があります。
3つの医療保険制度
1.税金による医療費支払い
イギリスやカナダなどの国では、かかった医療費は税金を使って国がすべてカバーします。このような国では、多くの場合、医師や看護師などの医療従事者は国家公務員であり、病院の経営も国や自治体が行います。かかる医療費は政治によって決まるため、十分な予算が分配されているうちは問題ありませんが、予算がカットされると、手術を受けるまでの待ち時間などが長くなったり、医療へのアクセスが悪くなることがしばしばあります。医療へのアクセスが政局によって左右されるというデメリットがあります。
2.社会保険制度
日本、ドイツ、フランスなどの国では、社会保険という制度が使われています。医療保険への加入は義務であり、保険料の徴取は多くの場合、給与などから天引きされる形で行われます。これらの多くの国では、保険料のみで医療費を賄うことができないため、一般税からの財源の補填が行われています。上記の1の制度との違いは、保険料は医療に紐づけられているため、政府が他の目的で使おうと思っても使えない点が挙げられます。また、「エンタイトルメント(権利)」と呼ばれますが、一般的に保険料を支払っている人だけが、医療保険の恩恵を受けられるという条件が付与されます。最後に、1の制度では政局によって医療費が増減し、その結果として国民の医療へのアクセスや医療の質が影響を受けますが、社会保険制度の場合には、医療への安定財源があるので、医療へのアクセスも安定するという利点があります。
3.民間医療保険
スイスやオランダなどの国では、民間医療保険を使って皆保険制度を実現しています。例えば、スイスの場合は、非営利の民間医療保険会社が提供する保険に加入することが義務付けられています。このような国では、民間医療保険を厳しく規制することで、保険会社が利益を追求する結果として患者が不利益を被ることを予防しています。
さて話を元に戻して、二層式医療保険制度の例を見てみましょう。
二層式医療保険制度を導入するとどうなるのか?ドイツとブラジルの例より
1.ドイツ
ドイツには公的医療保険(社会保険)と民間医療保険を併用した、二層式医療保険制度が導入されています。公的医療保険は、疾病金庫(Sickness fund)と呼ばれる110個の非営利団体によって提供され、約9割の国民がこの公的保険に加入しています。
一方で、高所得者と自営業の人たちの中には、民間医療保険に加入している人たちがいます。ドイツ国民の約1割はこの民間医療保険に加入しているとされています。
公的保険に加入している人たちは、民間医療保険に加入している人たちと比べて、専門医に診察してもらうまでにかかる時間が約3倍かかっていると報告されいます。つまり、格差の拡大に寄与していると考えられます。
また、民間医療保険には、より多くの高所得でかつ健康状態の良好な人たちに加入してもらうインセンティブがあります。その結果として、公的保険に加入している人たちの健康状態が平均すると悪化して、保険料が高くなったり、公的保険の経済的な維持可能性がおびやかされるという問題が報告されています。このような現象のことを、経済学では「逆選択(Adverse selection)」と呼ばれます。
2.ブラジル
ブラジルをはじめとした南米の多くの国では、二層式医療保険制度が導入されています。ブラジルではSUS(Sistema Único de Saúde)と呼ばれる公的医療保険が1988年に設立され、財源は税金によってまかなわれています。約75%のブラジル国民は、医療保険としてSUSのみに頼っています。
その一方で、23~25%の高所得者は、民間医療保険に加入しています。民間医療保険に加入している人は、診療までの待ち時間をスキップしたり、アメニティーの整った、より質の高い医療を提供する民間医療機関で治療を受けることができます。
ブラジルでも色々な問題が発生しているのですが、その一つが上述の逆選択です。ブラジルでは医療保険への加入義務がないことと、保険会社が希望者の加入を断ることができなルールのため、健康状態が悪く、医療費がかかる人ほどよい保険に加入するという現象がおきており、問題となっています。
また、民間医療保険の保険料は税控除できるため、公的保険に投入されるべき医療財源の一部が、そちらに奪われているという意見もあります。また、政府としては国民に医療サービスを提供するという責任の一部が、民間保険会社に転嫁されるため、医療財源をカットして、医療機関が財源不足になり、国民の医療へのアクセスが悪化している可能性が報告されています。
二層式医療保険制度を成功させるための重要な要素
二層式医療保険制度を成功させるための重要な要素は以下の通りです。
1.強力な規制
補足的保険に対する厳格な規制を設け、過度な利益追求を防ぐためには、国による規制が必要不可欠です。具体的には、民間保険会社が徴収した保険料の大部分(85%以上)が、きちんと保険加入者の医療費に使われていることを義務づける(Medical loss ratio)などがあります。そうしないと、民間保険会社の、株主への利益還元、広告宣伝費、取締役への高額給与などに徴取された保険料が使われることとなり、医療費増につながってしまいます。
2.第二層の保険を公的保険とする
第二層の保険は必ずしも民間医療保険である必要はないため、政府が第二層の保険も提供するという制度設計もあり、その場合には両方の層を社会保険として運営することになります。
3.一階部分の基本保険の充実
一階部分の基本的な医療サービスを十分にカバーし、第二層の保険への過度の依存を避ける必要があります。
4.公平性の維持
所得に関わらず、すべての人が適切な医療サービスを受けられるように、必要十分な医療財源を確保する必要があります。
5.コスト管理
二層式医療保険制度を導入することで、国の総医療費が上昇するリスクがあるので、この医療費上昇を抑制するメカニズムを導入する必要があります。
結論
二層式医療保険システムは、適切に設計・運営されれば、すべての人に基本的な医療を保証しつつ、個人の選択肢も確保できる有効な制度となる可能性はあります。しかし、その成功には強力な規制と公平性の維持が不可欠で、ドイツやブラジルなどこの制度を導入した多くの国では最適化するために苦慮しています。
一度導入した二層式医療保険制度をやめて元に戻すことはできません。一度生まれた、二階部分の民間医療保険の「市場」を、あとから潰すことは現実的に不可能だからです。つまり、二層式医療保険制度は「パンドラの箱」ですので、一度開けたら引き返すことはできないのです。日本が二層式医療保険制度を導入するとすれば、最善な制度設計にしないと、日本がせっかく達成した国民皆保険制度が破綻してしまうリスクがあります。
そのようなことが起こるのを防ぐためにも、日本にもしこの制度を導入するのであれば、医療経済学の理論とエビデンスに基づいた、極めて精緻な制度設計が必要不可欠となります。
※当サイトの情報を転載、複製、改変等は禁止いたします。
いいなと思ったら応援しよう!
