資本主義において資産価値があるか、ないかで測らない
山村で家を建てようとすると、銀行でお金が借りられないという驚愕の事実にぶつかる場合がある。
土地もそこに建てる家も、担保価値がなく、融資条件が満たせないということのようだ。全く新品の家ででもある。資産価値が低いので、土地の固定資産税もまちなかと比べたら圧倒的に少ない。
資本主義の評価軸で価値がないものは価値がないという論理がとおりがちの昨今ですが、資産価値がないからといって価値がないわけではない。
現代においても「使用」価値がある。使用価値とは、山村で家を建てるという意味でいけば、ここで暮らし、癒され、楽しく年を重ねていくのに価値があるかとうかという主観的な評価軸である。
資産価値から、使用価値に意識をうつし、その時代ごとに暮らしとともに使用価値を高めていく、結果、もしかしたら資産価値もあがるかもしれない。
だけども、できれば資産価値はあがらなくてもいいと思う。資産価値が高くなればなるほど、交換するものとして投機対象になる。持っているだけで得するよねと考える人がいるかもしれない。
いかにその時代ごとに使用している人が、使用している人なりに価値を感じて、暮らしの豊かさをあげていく。資産価値が小さければその分維持費も安い。そして、次の世代には資産評価ではないかたちで譲っていける。
使用価値にフォーカスして、楽しみながら山村を活かしきろう!
「未来にここに住み、暮らしを営んでいく人たちに委ねたい。」と心地よく送り出して受け取れる受け皿を。
「地縁と知縁でのこす共有資産」とよさとコモンズ 構想中!