世界がもし100人の村だったら
早いもので2021年も残り約3か月。そして世の中がコロナ一色となってから、もうすぐ2年が経ちます。
今後コロナへの向き合い方がafterなのか、withなのかはわかりませんが、振り返った時に、何してたっけ?でなく、ちゃんと記憶に残る、または、変化を実感した期間にしたいと強く思います。
そして、常々思うのは、自粛ムードが長く続く中でも、自らのできる精一杯のこと、新たなチャレンジや、それを続ける人は気持ちが本物である、ということ。
もうすぐ2年が経つコロナ禍、自分は何を積み上げれたのか、秋から冬へ向かう2021年の終わりへ向けて、改めて自らと向き合いたいと思います。
また、国内だけに目を向けると、政府のコロナ対策や賛否両論のオリンピック開催など、切り取って批判できること、批判したいことは幾らでも探せます。
ただ、もう少し世界に目を向けると、そもそも日本って恵まれているようね、と捉え方を変えることも可能です(ここ2、30年の海外との経済成長の差、それにまつわる話はここでは割愛しますが、、)
今日は少し懐かしい本を一つご紹介。
「世界がもし100人の村だったら」という20年ほど前に話題になった本です。世界の人口63億人を100人にすると、という本ですね(現在は78億です)。
ここに書いてある一つのフレーズが印象に残っています。
全員とは言いませんが、既に100人中上位2,3人に入っているのが日本人と言うこともできるのではないか、ということです。もちろん、20年前と比べて幸せの価値観も多様化し、何が成功かも答えは一つではありません。
ただ、大前提日本に生まれれば社会保障がありますので、基本餓死をして死ぬリスクも低いでしょう。もちろん治安だって海外に比べれば良いわけで。
東京オリンピック・パラリンピックを静かに開催できたのは開催国が日本だったから、という声も、頷きました(海外では暴動が起きてもおかしくありません(^^;)
自分の自己実現を考えたり、何度もチャレンジすることができるのは、日本という国があってこそであり、日本が世界から絶大なる信頼を得ているのは、海外を自由に往来できる日本のパスポートが証明済みです。
個人的には、大学時代にカンボジアのプノンペン近く、広大なゴミの山で暮らす子どもたちを見た時、痛烈に日本という国が当たり前ではないことを感じました。
明日を生きるのに、売れるゴミはないか、トングを持って探し回る子どもたち。ごみ収集車が新しいゴミを持ってきてはそれに群がる子どもたち。そこにいるのは、まさに明日を懸命に生きる子ども達でした。
当時、僕が撮った写真です。その瞬間澄んだ瞳で笑ってくれたことを今でも覚えてます。
僕は当たり前のように学校へ通えて、それだけで恵まれていること実感したと同時に、自らは一生懸命生きているかを自問自答させられ、日頃の自分に葉っぱをかけられたのを覚えております。
三食食べれて、明日生きれるかの不安を抱えず寝れる。そんな当たり前を過ごせるこの国に生まれたことから。その恵みをまずは実感すること。
日々生きていると、歯がゆい気持ちや、愚痴など、言いたいことがたくさんあったとしても、同じくらい「ありがとう。」を言える日々でいたいな、と思います。