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黄泉の国

死に際に多くの神々を生み、黄泉の国へ行ったイザナミ。夫のイザナギは妻に会いに行こうとします。

イザナミに会いに

是に其の妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉国に追ひ往きき。爾に殿の縢戸より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし」とのりたまひき。爾に伊邪那美命答へ白しけらく、「悔しきかも、速く来ずて。吾は黄泉戸喫為つ。然れども愛しき我が那勢の命、入り来坐せる事恐し。故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ」とまをしき。

古事記

意訳:妻のイザナミに会いたくて、黄泉の国へと追って行きました。黄泉の国の戸口で出迎えた妻に、イザナギは「いとしい我が妻よ、私とあなたで作った国は、まだ完成していない。だから帰ろう」と言いました。
するとイザナミは「とても残念です。もっと早く来て欲しかった。もう黄泉の国の竈門で炊いた物を食べてしまいました。ですが、いとしいあなたが会いに来てくれたのですから、帰ろうと思います。黄泉の神に相談してみます。その間は決して覗かないで下さい」と言いました。

*「黄泉戸喫よもつへぐ」とは、黄泉の国の竈門で炊いた物を食べる意味で、これにより黄泉の国の住人となった事を指します。


我慢できないイザナギ

如此白して其の殿の内に還り入りし間、甚久しくて待ち難たまひき。故、左の御美豆良に刺せる湯津津間櫛の男柱一箇取り闕きて、一つ火燭して入り見たまひし時、宇士多加礼許呂呂岐弖、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八の雷神成り居りき。

古事記

意訳:そう言ってイザナミは御殿の中に戻りましたが、イナナギは長い時間待つのを耐えきれませんでいた。そして、みずらに挿していた櫛の太い歯を一本取り出し、火をともして覗きみると、イザナミの身体には蛆がたかりうごめき、頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、女性器には拆雷、左手には若雷、右手には土雷、左足には鳴雷、右足には伏雷と、合わせて八つの雷神が付いていました。

*見るなと言われて、ついつい見てしまうのは神話の定番で、昔話にも引用させる寓話です。

*雷は「物凄い威力のあるもの」として、黄泉の国に現れます。ウジにたかられたイザナミを、現世に戻すために必要な力だったのでしょうか。


イザナギの逃亡

是に伊邪那岐命、見畏みて逃げ還る時、其の妹伊邪那美命、「吾に辱見せつ」と言ひて、即ち予母都志許売を遣はして追はしめき。爾に伊邪那岐命、黒御かづらつれば、乃ち蒲子生りき。是をひろひ食む間に、逃げ行くを、猶追ひしかば、亦其の右の御美豆良に刺せる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄つれば、乃ち笋生りき。是を抜き食む間に、逃げ行きき。且後には、其の八の雷神に、千五百の黄泉軍を副へて追はしめき。爾に御佩せる十拳劒を抜きて、後手に布伎都都逃げ来るを、猶追ひて、黄泉比良坂の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子三箇を取りて、待ち撃てば、悉に迯げ返りき。爾に伊邪那岐命、其の桃子に告りたまひけらく、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国に有らゆる宇都志伎青人草の、苦しき瀬に落ちて患ひ愡む時、助くべし」と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美命と号ひき。

古事記

意訳:その様子を見て、恐ろしくなったイザナギが逃げ帰ろうとした時、イイザナミは「私に恥をかかせましたね」と言い、すぐに予母都志許売を呼んで追わせました。イザナギは髪につけていた黒いかずらを取って投げ、そこから山ブドウの実が成りました。それを(予母都志許売が)拾い食べている間に逃げましたが、更にが追ってきたので、今度は右のみずらに挿していた櫛の歯を折って投げると、タケノコが生えました。それを(予母都志許売が)食べている間に逃げ延びました。次に八つの雷神に、千五百人の黄泉の軍勢を従わせて追わせました。腰に下げた十拳剣を抜き、後手に振りつつ逃げましたが、尚追ってきます。黄泉比良坂にたどり着いた時、ふもとに成っていた桃の実を三つ投げると、軍勢は引き返して行きました。イザナギは、その桃に「お前は、私を助けてくれたように、葦原の中国に生きる人々が苦しいときには助けてくれ」と言い、意富加牟豆美命という名前を与えました。

予母都志許売ヨモツシコメは、黄泉の国の醜女で、死者の国の強い女という意味合いになります。

*葡萄や桃で邪鬼を払うのは、中国古典の影響だと言われています。

宇都志伎青人草うつしきあをひとくさは、青々とした多くの草木を民に例えており、ここで初めて神ではない「人」という表現が出てきます。

黄泉比良坂よもつひらさかは、現世と黄泉の国の境界線で、松江市の揖屋が伝承地とされています。

黄泉比良坂

イザナミとの別れ

最後に其の妹伊邪那美命、身自ら追ひ来りき。爾に千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞へて、其の石を中に置きて、各対立ちて、事戸を度す時、伊邪那美命言ひけらく、「愛しき我が那勢の命、如此為ば、汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」といひき。爾に伊邪那岐命詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹の命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋立てむ」とのりたまひき。是を以ちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり。故、其の伊邪那美命を号けて黄泉津大神と謂ふ。亦云はく、其の追斯伎斯を以ちて、道敷大神と号くといふ。亦其の黄泉の坂に塞りし石は、道反之大神と号け、亦塞り坐す黄泉戸大神謂ふ。故、其の謂はゆる黄泉津良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。

古事記

意訳:最後にイザナミ自身が、追ってきました。(イザナギは)千引きの石を黄泉比良坂まで引っ張り塞いで、その石をはさんで、向かい合い、離婚を言い渡した時、イザナミは「いとしい我が夫よ、こんなことをするのならば、あなたの国の人を一日に千人締め殺しましょう」と言いました。
するとイザナギは「いとしき妻よ、あなたがそうするならば、一日に千五百の産屋を立てよう」と言いました。こうして毎一日に千人が死に、千五百人が生まれるようになりました。そんな事があり、イザナミを黄泉津大神を呼ぶようになります。また追いついたことから、道敷大神とも呼ぶようになりました。黄泉の坂をふさいだ岩は道反之大神と名づけられ、またの名を黄泉戸大神といいます。なお、黄泉比良坂は出雲の伊賦夜坂と言います。

*「事戸を度す」は「絶縁の呪を言い渡す」という意味合いで、ここでは離婚を表しています。

*「出雲国の伊賦夜坂いふやさか」の地に比定される、松江市東出雲町揖屋いやには、イザナミを主祭神とする式内社の揖屋神社があり、出雲国風土記の意宇郡の項では「伊布夜いふや社」と記されています。

意宇六社の一つ揖屋神社

殯(モガリ)

イザナギに会いにイザナミが黄泉の国へ行く話は、古代日本の葬儀である
モガリ」を、模していると言われています。
殯では死体をすぐに埋葬せず、遺体が腐ってハエがたかり、白骨化するまで定期的に遺族が様子を見に行き、その「死」を確認しました。儀式として長期間の殯が行われましたが、大化の改新以降は、儀式の縮小化や仏教の影響による火葬が普及して、殯は衰退したようです。
葬儀の「通夜式」は殯の名残だと言われています。


黄泉の国から戻ってきたイザナギは、その穢れを落とすために「みそぎ」を行います。

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