(コラム)物書きの過渡期
物語の世界において、今の時代はあらゆるジャンルで過渡期を迎えている気がする。
今はどうか、その昔、教室の前や後ろに貼ってあった年表に戦国時代と江戸時代が縦線で区切られず斜めの線だったと思うがまさに我々は斜めの中で生きている。
世の中の大きなことを捉えて言っているのではなく、たとえば小説、物語の世界。
単純に言ってしまうと、日本においては長く、「感情優先」は中間小説。「意志」は理念小説、「感覚」が純文学などと言われ、融合したものが「純文系中間小説」などと呼ばれていた。大宅壮一がそんな仕分けをしてから、そう呼ばれるようになった気はするがとくに調べたわけではないのであしからず。
物語に飢えている時代なら案外、その区分けで読者がいただろうし、子供たちが、手順を踏んで成長していくにもよかったかもしれない。
しかし、多様化した昨今、それが商業出版で通用するわけではなく、混在しないと面白みを感じない。まことに書き手受難の時代なのだが、言い訳をすると、混在させると哲学は薄くなるし、感激の度合いは低くなる。
自虐的にいうと、そういう古典的な考えを、制作者においても変化をせざる負えなくなったのがパソコンからさらにスマホへの戦場変化だろう。
紙とデジタルの混在。哲学より刺激的面白さ、まさに斜めの線の只中だ。
「いやー、紙の肌触りがないと読む気になられない」
「パソコンやスマホは目がね、長く読めないよ」
対して、
「本なんか重くて持ち運びに不便だし、読んだ後邪魔」
「読みたいと思った時、スマホはすぐに何か読める。本屋まで遠いしね」
となる。
私は前の稿でも書いたが社会人スタートは新聞記者だが、原稿は10年近く鉛筆で書いていた。升目の入った原稿用紙、もはや化石の感すらあるが。
編集者になったころには三人に一人の作家がワープロになっていた。私もすぐに買い求めたが、事務的なことは書けるが、その頃、請け負って書いていたコラムは手書きではないと書けなかった。
ある時、何かのパーティーで芥川賞を受賞している女流作家に聞いた。
「ワープロで書いているんですか、すごいですね。私は考えられないし書けないんですよ」
「えー、手が書くんじゃなくて、頭でしょ」
手首を指しながら、「ここから先は機械みたいなものでしょ」と何を言っているの、という風だった。漠然と時代は変わるのかなと思った。
その翌年だったかパソコンの世界がMacやWindowsの出現で大きく変わった。乗り遅れまいと必死になったのを覚えている。
『スマホで小説が主流になるわけない』
いろいろな声を聞いていたし、肯定、否定を含め理解、納得もしていた。だが、自らはなんとも不甲斐なく乗り遅れていたのだ。
流れに竿はさせないのは知っている。乗り越えるべき山だし、斜め線からの脱却を図るべきだし、そう決意している。
けれども手首のその先はさみしいのである。