(コラム)表情筋は語る
WBCの試合の中で見せた大谷翔平の顔のなんと魅力的なことか。大笑、微笑、真剣、怒り、鼓舞、その都度癒される。これがスターなんだろう。このまま歳を重ねて欲しいと親のような気持ちになる。
と思うと同時に、過去に見た醜い顔も浮かび萎えたこと数度。
もう35年前、ある新聞社に入社、研修の最終日だったか、講師から、驚く指示が出されたことを今も鮮明に覚えている。全30巻の百科事典が全員に配られた。
「今からその本の間違いを探して。事実の間違いでも誤字脱字で構わない、一つ探し出したら帰っていい、見つからなければ三時間集中して」
すでに研修が始まって八時間、夕方五時、入社三日目、当然、疲労困憊していた。
恥ずかしながら、この頃は、百科事典に間違いがあるはずがない、この講師はおかしいのではないかと本気で思っていた。当然、身ははいっていなかった。
ところが、三十分もたたないうちに「ここは、一字抜けているのでは」と手を挙げた男がいた。有名な難関校を出た、さわやかな美男子だ。講師は「すごいね、これはあきらかに一字「ら」が抜けているね」と。
その男はみんなを見ながら、ニヒルな笑みをうかべた。それまでもいろいろな人の表情を見ていたつもりだが、醜いと思ったのは初めてだった。それ以後、その顔を何度もみるようになった。これが大人の社会なのかと最初に大人を確信した出来事だった。
これが本職の校閲部には配属されたくない、と思っていたら、なんとその隣の席の部署だった。私にとっては暗い社会人スタートだった。幸いにもプロの校閲マンはそうでなかったし、一カ月の教育期間を経て隣県の支局に配属され解放された。
以前からなにげなく思っていたが、最近はよく思う。ネットの中で上げ足をとって喜ぶ人間、全体を聞けば話が違うにもかかわらず、一部を切り取ってあたかも失言、悪口を言ったかのように報じるマスメディア。顔も本名も分からない人たちの所業だが、もしかしたらあの醜い顔をした人たちなのでは、と。
顔は表情筋で作り上げるという。他人を小ばかにしたような顔を連続すればどうなるか、いつも怒りの表情をしていれば。筋肉は固まり、いつもその顔になる。その目付きになる。
逆に一つのことに集中する職人は渋く、濁りのない顔になる。私たちはそれをみて、いい顔しているなーと思う。おそらく経験則でその感覚を得るのだろうが、人間の本能の中にあるのかもしれない。
なぜなら、民族や文化を超えて、海外の為政者を見たときに「いい顔」「出来そう」「優しそう」などと瞬時に思うからだ。
一方で、国会の論戦などを見る時に、あきらかにあら捜し、重箱の隅をつついているような議員の醜いことか。与野党問わずである。
このような議員が海外に出て、日本を代表しているかのように振舞うのはひたすら恥ずかしい。
統一地方選挙は四月。表情筋を目安に考えるのも悪くない、と思っている。