父と母と①~ある生い立ちの記
小塩節『自分に出会う~ある生い立ちの記』に触発されて、父と母について書いてみたい。
小塩節さんは、長崎県佐世保の牧師の家庭に生まれた。戦前の生まれで、「ヤソ」とバカにされたそうだ。
私も、牧師家庭に生まれた。父は、東北の田舎町、大船渡で牧師をしていた。父の父も母の父も牧師だった。だから、どちらの実家に行っても、食前には感謝の祈りをするし、日曜には教会に行った。幼い頃は、日本人は皆、キリストを信じて生きているのだと思っていた。
手作りものが好きな父だった。姉と私の勉強のための椅子を手作りしてくれた。驚いたのは、座面が2つに割れて蝶番でつながっており、開くと椅子の上部がひっくり返って脚立になるのだった。高いところに手が届くようになるのが嬉しかった。教会学校の教材も手作りだった。動く紙芝居、賛美歌歌詞の大型絵本(歌詞のほか、絵もついていた)もあった(先日、大船渡の教会に行ったら、その賛美歌歌詞絵本があって懐かしくなった)。
字も上手、押し花も上手、押し花を色紙に貼って、好きな言葉(たいてい聖書の言葉)を書いては飾ったり、人にあげたりしていた。
音楽も好きで、オルガンは弾く、ハーモニカは吹く。家族で歌うとハーモニーをつける。朝日新聞の作曲懸賞に応募していたのも知っている。
子どもたちに絵本をよく読んでくれた。その声が心地よくて、夕食のあとだと、こたつの中で寝てしまうのに十分だった。英語の本も読んでくれた。『スイミー』の英語版を覚えている。父がその場で日本語にして話してくれたので、『スイミー』というタイトルは、おとなになってから知った。
父に苦手なことなどないのだと思っていた。
田舎の牧師は大変と言われる。長続きしない人も多いらしい。でも、父を見ていて大変だとは思わなかった。近所で子ども会のチラシを配ると、子どもたちが小さな礼拝堂に入り切らないほど集まったものだった(1970年代)。普段から、我が家5人兄弟、教会員さんのお子さんが4人兄弟で、それだけでもワイワイと賑やかだった。北里大学水産学部の学生さんが教会学校教師をしてくれて、いい兄貴分だった。
父は、母と一緒に訪ねてくる人を歓迎して、食卓に招き、何よりも楽しそうだった。
2011年に牧師を隠退するタイミングで、私が牧師をしている教会が被災した。これは神の招きと思ったらしく、1年間は週の半分を沿岸に来て手伝ってくれた。その一年はとても貴重な時間だった。そして、感謝という言葉では言い表せないくらい、感謝している。
父は、2011年の隠退にあたって、小冊子を残している。その中で、息子が牧師になったことが嬉しいと書いていたので驚いた。
隠退してから4年後、地上の生涯を終えた。幸せな人生だったと思うし、あのように生きたいと憧れる人生だ。
父のことだけで、書きたいことがありすぎた。母のことは、次回としたい。
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