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「カタルシス?」 ~百字小説のプロローグ・5740字~

 日曜日の朝、早く起きたものの特にやることもないのでその辺をぶらぶらしようと思った。なんでまたそう思ったのか。春めいた空に惹かれて外に出たくなったのかもしれない。お気に入りのスカートを引っ張り出して身支度をした。そして勢いよく出かけた。

 しかし衝動的に行動してしまうのが悪い癖だと自分でも思う。私は散歩に出ても何もすることがなかったことに家を出て数歩で気が付いた。この時間はまだコンビニぐらいしかやってなくて、本屋も飲食店も洋服屋も何も開いていない。だからと言ってせっかく家から出たのだから何もせずに戻るのはしゃくだ。玄関から数メートルの散歩に出て帰ったらお笑い種だ。きっと中学生になったばかりの弟にバカにされるだろう。それに宿題も部活もなくて手持ち無沙汰でやることのない。とりあえずどこかには行こうと足を進めた。

ノロノロ、ウロウロと歩いているうちに久しぶりに家の近くの川辺に行こうかなと思った。中学生まではよく行っていたものだが高校生になって一年たった今でも、まだ一回も行ったことがない。中学生までは友人関係のコミュニティが家の周辺だから、近所によく遊びに行く。しかし高校生にもなるとコミュニティの幅は電車を通じて広くなって次第と近所とは疎遠になる。だからこの現象は不思議ではないのだが、そんなこんなで自然と近くの川辺へ足が向いているのは不思議だ。

 川辺につくと、土手に広がる春の草花が出迎えてくれた。黄色、藍、白、ピンク、オレンジの色彩豊かな原っぱに心を躍らせ、私は自然のカーペットに寝転がった。空には柔らかい白い雲がプカプカと浮かんでいた。絵にかいたような春のワンシーン。ドラマだったら何か起きないと平和な絵面過ぎてチャンネルを変えてしまうだろう。私はデタラメな鼻唄を歌って久しぶりの感覚を楽しんだ。

 しばらく川辺に寝そべっているうちに河原に奇妙な人がいることに気が付いた。白髪交じりの薄汚れたヨレヨレのスーツを着たオジサン。みすぼらしい恰好をしているのにその姿からは不釣り合いな気力と自信をまとっていた。私からかなりの距離が離れているのにオーラを感じるほどであったので薄気味悪くも感じたが、私はオジサンに興味を持った。オジサンは軽トラックで川岸まで入ってきたようで、軽トラには荷台からはみ出すほどの大きな鉄の花が乗っていた。なんだろう。天体望遠鏡……にしては夜じゃないし、本当になんだアレ。持ち運び噴水……なのかな、パブリックアート的な。眺めているとオジサンは台車を使って荷台から謎物体を下ろして運び始めた。謎物体を広いところに置いた後、オジサンは屈んで謎物体をいじり始めた。遠くで見ているのでよく分からなかったが謎物体は何かの機械らしい。そう思ったら円柱状の土台放射状に上からアンテナみたいなものが付いている近未来的な装置に見えなくもない。気づけば私はオジサンと謎機械に興味津々になって凝視していた。

 しかし気を付けろ。誰々は危うきには近づかず、みたいな言葉があった気がする。今はまさにその状況だと思う。勘ではあるが気になった事に首を突っ込むと大抵ろくな目に合わない。中学の時、昼休みに男子たちが集まってコソコソと話しているから気になって「何やってんの。教えてよ」と言えば学年一のマドンナに好きな人がいるかどうか聞いてほしいと頼まれて、あの時は散々だった。そうだ気を付けろ私。男の告白が失敗して気まずくなったあの時のクラスの雰囲気を思い出せ。

 私は気になる気持ちを抑えて家に帰ろうと思い立ち上がった。

「おー。いいところに人がいた。ちょっとそこの君、こっちに来てくれないか」

立ち上がるところをオジサンに見つかってしまった。さっきまでは寝そべっていたから人がいると思われていなかったのか。それなら、あのままずっとガン見していればよかったが時すでに遅し。薄気味悪いオジサンが小走りで向かってくる。不審者がいた時のイカのお寿司。この時だけ頭から抜け落ちていて固まっているだけであった。

 謎モニュメントの前にオジサンに連れられた。銀色の花の前に立って分かったがモニュメントではなく機械であると確信した。ランプやコードが見えていて操作基盤が付いているのが見えたからだ。この機械が造りたてだからか太陽の光をキラキラと反射させていた。

「この装置綺麗だろう。十年間を費やして完成させた私の最高傑作かつ集大成だ。今日はそのお披露目。君は運がいい。この装置中央にある大きなスイッチを押してみなさい。これがこの装置のイグニッションスイッチだ」

言われるままにスイッチを押した。重いスイッチで少し押し込んだだけではびくともせず思いっきり押すと一センチほど沈んでズシリと鳴り響く音がした。起動スイッチを押された装置は重低音を響かせながら微かに振動し始め輪郭がぼやけた。花のようなアンテナが薄く光り頂点からはパルスがほとばしっていた。

「あの、この装置って、なんの装置、ですかね」

不審なオジサンに質問するのに緊張してしどろもどろになってしまった。オジサンはよくぞ聞いてくれたと満足そうに頷いた。

「ぜひ説明しよう。しかし装置の説明をする前に聞いておきたいことがある。君は言葉に力があると信じているかね」

あっさり教えてくれると思いきや、変な質問を出されて鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてしまう私を見てオジサンはまた楽しそうに笑った。「時間をかけて返答してもいい。ただ分からない答えはナンセンスだからやめてくれよ」とだけ言ってオジサンは自作の機械を我が子のように眺め始めた。

 「言葉に力があるかどうか」という質問が何の意図があるか分からないが返答を横で、気長ではあるが、待たれている今考えなければ。でもこの答えは初めから決まっていると思う。「言葉には力がある」は手垢がつくほど物語や教科書、チャリティーのスローガンに使われている。「がんばれ」と言われると応援されている気持ちが届いて元気が出て、「死ね」と言われれば自分の存在を否定されたと感じてひどく傷つく。言葉のナイフという表現があるあたり良くも悪くも力を持っているのではないのだろうか。

 数分経ったのに飽き足らずに機械を眺めているオジサンに答えた

「言葉には力があると思います」

「ほう。その理由はなんだ」

「言葉によって人は喜んだり悲しんだりするからです」

「なるほど、世論の代弁ありがとう」

そう言うとオジサンは機械の横に立ち私に向かい合った。ヨレヨレのスーツの襟を正し、ネクタイの形を整えた。そして私を真っすぐ見据えて話をし始めた。

「君の言った通り言葉には力があると言われている。道徳的で規範的で一般的な言い方だ。しかしよく考えてみてほしい。君は私から『勉強頑張れ』と言われたら頑張れるのか。知らんオジサンから言われても、やる気が起きるわけない。そう言葉に力があるならどんな励ましも力にならなければおかしい。言葉の持っている力は言う人と受け取り手の間柄に依存したものなのだよ。だからこそ君の両親からの『頑張れ』と私からの『頑張れ』には大きな差異がある。いや、スポーツ選手は応援の声で頑張れているからその理論はおかしいと言うかもしれない。でも頑張れと言うための身振り手振り態度が選手を元気にさせるだけで、これらが言葉の力かのように振舞っているから誤解されているのだ。そもそも……」

私は力説するオジサンに「そうですか」と相づち打ちマシーンと化していた。何だか言っていることが小学生の屁理屈じみていて聞いていてつまらなかった。別に言葉に力が有るとか無いとか考えることは不毛な気がする。言葉にうまく表せないけど。

「……というわけで私はこの『言語破壊装置』を製作したのだ。この装置はありとあらゆる言語を使えなくさせる。使えたとしても精々100字ちょっと程かな。仕組みは難しいから説明しないけど明々後日には文字も打てないし、話すことも出来なくなる。」

「ちょっと待ってください。え。ど、どういう。」

相づちマシーンも急に恐ろしいことを言い始めたのに気付いて、ただの相づちをし続ける訳にはいかなくなった。ゲンゴヲツカエナクスル。オジサンは何を言っているんだ。

「言葉通り一生のうち人は100字しか文字を使えなくなるよってだけ。言葉を使えなくなって人類には言葉に力がないことを知って欲しいんだよね。結局態度や身振り手振りで心は通じ合えるって。ある意味言語という毒からの浄化だ。」

ますます意味が分からない。言語が使えなくさせるのなんてジョークなのだろう。そう思いたいが微かに震える銀色の不気味な言語破壊装置とオジサンの真剣な物言いから嘘ではないと不思議と確信してしまう。そしてさらに恐ろしいことに気が付く。

「もしかして、私が押したボタンが言語破壊装置の起動ボタン……」
オジサンは気持ちが悪いほどにニコリとして「歴史的瞬間に立ち会えた君は幸運だよ」と話した。私は放心して立ちすくんでしまった。

いくらか落ち着きを取り戻した時にはオジサンも言語破壊装置も姿がなかった。きっとこれは悪い夢だろう。そんな訳ない自己暗示をしながら私はおぼつかない足取りで家に帰った。帰り道の太陽が真上から私を痛みつけるかの如く照っていた。

その日は何も手につかないまま寝た。


 翌日の月曜日の朝には、オジサンが言った通り世界中に明後日の4月23日標準時午後0時14分から100文字しか表せないことが知れ渡った。オジサンが作った「言語破壊装置」が文字にしても、声にしてもほとんど言語を使えなくさせる。国際社会でこれ程信憑性を持って信じられたのはやはりオジサンが権威を持った研究者だったからだろうか。根拠となる論文でも書いてあったのだろうか。

 質の悪いジョークだと鼻で笑う人もいた。大真面目に難しい顔をする人もいた。もちろん論理の飛躍による謎の主張で騒ぎ立てる人も。反応は十人十色と言えばそれで終わるのだが、日常のデフォルメのようにも見えた。

 今朝のニュースで名高いらしい教授がこれからどうなるか解説していた。

 日常的に言語と言うものは使われていて、コミュニケーションだけでなく情報の保存に伝達、漫画や演劇といったエンターテイメントの創作に提供にと人間生活そのものです。百文字しか使えない人類はこれまで重ねてきた技術と文化が瓦解する為に原始時代に逆戻りする。現状維持でさえも難しいほどに言語に依存しているのですよ。だから今私達、市民や一般企業に出来る限りの事を尽くすべきです。一方、政府は私達とは別のアプローチでこの問題に取り組んでもらいたいものです。例えば百文字しか使えなくなる言語破壊装置の効果を阻害する研究を進める、国際指名手配されている言語破壊装置の開発者「白田 元」の身柄を確保する。言語破壊装置の効果の真偽にはどちらも確証を持つ根拠が出ていませんが、モノがモノなので最悪の状況を見据えて動かないといけません。経済損失どころではない人間損失が目の前に来ていると思って行動しないと。語ることの出来ない社会なんて死も同然なんですよ。

 この説明だけで400字は使っているなと思いながら私は朝の食卓に座った。食卓には母が用意した白ご飯とポトフとおかずたちが揃っていて私を出迎えてくれた。

 ニュースを見ながら納豆を混ぜていた父が、まるでノストラダムスの大予言みたいだなと呟いた。そして糸を引きながら納豆をすすった。ノストラダムスってなんの事か聞こうと思ったけど父の汚いのを見て辞めた。私はふりかけをご飯にかけながら、こんな時でも呑気に報道するスポーツニュースを見た。

 学校に行っても言語破壊装置の話で持ちきりだった。今のうちに好きな人に告白するだとか、宿題が無くなってうれしいだとか、何かと呑気であった。もうすぐ成人の高校生でも形式的に大人に近いだけで中身は子供だ。将来の「し」でさえも考えていないのだろう。考えていたとしても受験の「じ」の文字でニアピンかな。そんな私は別に、何か考えているわけでもないけど。

 放課後に珍しく学校の図書室に行ってみた。父が呟いていたノストラダムスが気になったが父に聞くのは癪なので。図書館に行ってもどの本を読めばいいのか分からないので司書さんに聞いて新書を探してもらった。普段は本を読まないからびっしり書かれた新書は薄くても読みきる前に飽きてきた上に内容も分からなかった。ノストラダムスが1999年になんかが起こると予言したけど一部の人が終末が訪れると解釈して混乱を招いたとか。

 でも今回はたぶん、ほぼ、確実にとんでもないことが起きるからノストラダムスの比ではないほど混乱するはずだ。もしかしたら、今にでも暴動があるかも……。不安になったので急いで家に帰った。

 家に帰ったら母が出迎えてくれてハグをした。普段はしないのに気が変になったのだろう。でも悪くないので私は反抗せず暫く抱き付かれていた。

 母のハグから解放されて自室に入ってSNSをぼんやり眺めてみた。案の定荒れに荒れまくっている。「SNSに書き込むのも100字換算されるから罵詈雑言も荒唐無稽も魑魅魍魎も静謐甘美もあと少ししかできないから今のうちだから荒れるのも当たり前か。」私もよく分からない四字熟語を並べてSNSに投稿した。このごちゃごちゃが好きだったんだけどな。

 SNSを見ていると、ある投稿に興味をひかれた。

「一生で百字しか喋れないし書けないならその一生を賭けて小説を書かないか」
「賛成」
「百字小説を書くってことでおk?」
「それは素晴らしい。私もそうします。」
「あさってまでに考えて誰よりも速く出すは」

 もし言葉に力が無くて、無意味なら百字小説を読んでも、なんとも思わないのかな。それとも何かしら思うことがあるのか。そもそも100字で言い表すのは難しいから、言葉以外の何かが百字小説を飾り立てるのか。オジサンが言っていた「言葉に力がない」どうやったら否定、肯定できるのだろう。
悶々と考えても仕方がないのは分かっていたが考えてしまう。一つだけはっきり分かることは、明後日になったら答えが出るかも、てこと。


4月23日を迎えた。



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