8年間の教員業を振り返る
筆者は2017年から専門学校、自ら設立したスクール(一般社団法人HOPTER TECH SCHOOL)、そして大学(名古屋文理大学)と、システム開発会社の代表の傍ら、教員として勤めてきた。
先日、ふと教員になって8年経ったことを認識したので、これまでの教員業を振り返っておきたい。
専門学校時代(2017〜2021)
「教員を探してるんです」
Ogaki Mini Maker Faire 2016の展示準備をしている最中、そう声をかけられた。
声の主は、ソフトピアジャパンの企業でエンジニアとして勤めたあと、1年前に大垣市内の専門学校に講師として転職した方だった。
「アプリ開発とネットワーク・セキュリティ、あとWeb制作が教えられる講師を探してるんです」
「そうなんですね」
「なかなかお願いできる人がいなくて…」
「自分、すべて教えられますよ」
「でも石郷さんは財団で働いているでしょ?」
「えっと、実は今年度で退職の予定なんです」
「えっ!本当ですか!さっそく来週打合せましょう!」
そのくらいの短い会話だったと思う。
そんなこんなで、その月のうちに専門学校の事務長・理事長とお会いして、4月から専門学校の教員になることが決まった。
これまでの人生で教員を目指していたわけではなく、人に教えることが好きなわけでもない人間が教員になってしまった瞬間だった。
入職してから、学生や他の教員から「先生」と呼ばれるたびに、自分のことと思えなかったのを覚えている(いまでも若干違和感がある)。
初年度教えることになったのは「情報学概論(1年生)」「モバイルアプリ開発(2年生)」「Webアプリ開発(2年生)」「ネットワーク・セキュリティ演習(2年生)」の4科目だった(後に「プロジェクト演習」週6コマ(2・3年生)、「オブジェクト指向プログラミング」週1コマ(3年生)が増える)。
専門学校は、大学と違い、週に同じ授業が2コマ(90分×2回)ある。教員になることが決まってから、ある程度の授業資料のストックは作っていたが、あっという間にストックが尽き、毎日毎日次の日の授業資料作成に追われる日々になった。
日中は基本的に授業で時間が埋まる(授業コマ以外にも教務関連の会議、高校訪問等が入る)ため、夕方以降と土日に授業のネタを考え、資料に落とし込む。現在、スライド資料を素早く作れるようになったのは、この時期に鍛えられたからだと思う。
教科書の罠
当初、すべての授業のスライド資料を作るつもりだったが、途中で無謀だったことに気づき、一部の授業は教科書に頼ることにした。
「情報学概論(1年生)」は、基本情報技術者試験の出題範囲をベースに、情報工学のリテラシーを身につける授業だったため、「キタミ式イラストIT塾基本情報技術者」に沿って、毎回用語を10つ取り上げ、その解説をホワイトボードでしていくことにした。
よく座学の授業において、筆者が最初に学生たちに伝えることがある。
「聞いているみんなもつらいと思うが、教えている教員もつらい」
人の話を集中力を持って90分間聞き続けるのは難しいが、明らかに話を聞いていない学生に対して話し続けるのは、教員もつらい。
そこで、毎回10分早く授業を終わらせることを学生に明言し(学生のモチベが若干上がる)、60分間は用語解説を行い、残りの20分間はITに関連する雑談をすることにした。
これは成功し、学生も寝ることなく、授業を受けてくれるようになった(後に学生が覚えているのはほとんど雑談だけだったことが判明するが)。
もうひとつ教科書に頼ることにした科目が「モバイルアプリ開発」だった。XcodeとSwiftを用いて、iOSアプリ開発を学ぶ授業である。様々な技術を組み合わせるWebと異なり、基本的に単体の開発環境で完結するため、教科書が一冊あれば学ぶことができる。わかりやすい教科書を選定し、これをベースに授業を行った。
これが罠だった。
後に説明するが、前期の終わりに学生それぞれにアイデアを出してもらい、オリジナルのアプリを制作させることにした。独自の授業資料を使っていた「Webアプリ開発」は、ある程度の理解度を確認していたため、モバイルアプリも開発できると考えていた。
しかし、結論から言うと、学生たちはアプリ開発をほぼ理解できていなかった。
そのため、この前期期末課題は、ほぼ筆者が実装し、学生に見てもらって理解させるという形になった。
筆者はよく学生に「学習は小さいインプットとアウトプットを繰り返すことが大事」と伝えているが、教科書によるインプットに偏った授業を過信した結果、学生たちの理解度を上げることができなかったという苦い経験になった。
後期になり、学生たちに「申し訳ない。前期の授業は一旦忘れてほしい。もう一度、オリジナルの教材で授業したい」と謝罪して、「モバイルアプリ開発」の授業を仕切り直すことにした。
その結果、後期期末課題は、学生たち自身がプログラムを書いて、作品を完成させることができた。
「作品」をつくる
授業の中で、いずれネタが尽きると感じ始めた筆者は、学生たちにアイデアを創出してもらい、オリジナルの「プロトタイプ作品」を作ってもらおうと考えた。
アイデア創出については、下記に記している。
しかし、元々専門学校には「作品を作る」という文化が存在せず、学生たちも「プロトタイプ作品」がどういうものなのかを知らなかったの。そのため、学生との共通言語を作るために奔走することとなる。
また、制作した作品は学内で展示することを決め、展示会としての最低限のフォーマットを理解してもらうために、キャプションを作ったり、作品の電源配線を整えたりといったことをひとりで行った。
初の学内展示は、他の教員による一定の評価と学生の経験に繋がり、学外の展示へと繋がっていく。翌年度から学外での作品展示会は、年に2回開催されることとなり、HOPTER TECH SCHOOLまで続く毎年恒例の文化となった。
展示会は、ときには企業と学生をつなぐ場として機能し、面接ではうまく自分のことを話せない学生もプロトタイプ作品を間に挟むことで、企業の方と積極的にコミュニケーションしている姿が見られた。
また、展示会で話したことがきっかけでインターン→就職が決定する等、一般的な就職活動とは異なる文化も生まれた。
2024年3月8日(土)〜9日(日)に開催された「進級・卒業制作展 HOPTER 2024」では、筆者と卒業生有志による過去の展示会を振り返る「展示会を展示する」が展示された。
ハッカソン
ハッカソンとは、短い期間(最短で1〜2日、最長で1ヶ月程度)で、テーマに沿ったアイデアを考え、プロトタイプ作品を制作するイベントを指す。
筆者が専門学校に在職していた当時はハッカソン全盛期だったと言える。専門学校の近くにあるIT集積地「ソフトピアジャパン」では、多い年で3〜4回のハッカソンが開催された。
いまでは「ハッカソン推進論者」とまで言われている筆者だが、当時はあまり賛成派ではなかった。短い時間でアイデアを考え、実装もいかに最短コースを狙うか。競技としての面白さはあるが、じっくりコンセプトを練り、自問自答を繰り返して行う本来の作品制作とは違うと考えていた。じっくり制作したほうが作品の強度も高まる。
(このような理由もあり、現在では3〜4週間程度の猶予のあるハッカソンにのみ学生を参加させている)
しかし、学生は往々にして制作に時間をかけがちである。学生時代という限られた期間で多くの経験を得るにはスプリントが大切だ(ひとつの巨大な作品を作るよりも、いろいろなジャンルの作品を様々な人と組んで制作するほうが幅広い経験を得られる)。そういう意味で、ハッカソンは作品を作る機会としては良いと考え始めた。
良い教材がネット上に有料・無料問わずたくさんある現代において、学校の役割は学生に締め切りを作ることであると筆者は考えている。
全盛期でもあったハッカソンやコンペに積極的に参加し、多い年で1年間に36件参加した。これは年末年始等のイベントがない期間を除くと、平均で1週間に1件締切があるペースである。学生の締め切りは教員の締め切りであるため、筆者も学生の打ち合わせを3〜4件はしごする毎日だった。
その他の活動
その他、産学連携のための「産学協創センター」設立、学会(研究会)発表、企業案件、学生主体の「学祭実行委員会」設立を行った。
当時の年間の授業の流れを下記に記す。これ以外にハッカソンや企業案件を30件以上こなしていく。
HOPTER TECH SCHOOL時代(2021〜)
専門学校教員生活も5年目を迎えようとしていた頃、学内で様々な問題が顕在化し始めた。
詳細は差し控えるが、その問題は次第に大きくなり、教職員の労働組合設立(筆者は副委員長→実質的委員長)、学生・保護者の署名活動、果ては県庁や県会議員まで動く自体となった。
結果として、筆者はじめ当時の主要な教職員が辞めた。
筆者や労働組合は最後まで学生・教育ファーストであることを貫いたこともあり、学生・保護者は常に教職員の味方をしてくれていたのが嬉しかった。
専門学校を去る際、同僚教員と下記の会話をしたことをよく覚えている。
「辞められたら、べつの学校に行かれるんですか?」
「いえ、元々教員になろうと思っていたわけじゃないですから。いちエンジニアに戻ろうと思っています」
「そうですか。じゃあ、お互いに別々の業界でがんばっていきましょう。たまには飲みに誘いますよ」
と言ったものの、辞めてから1ヶ月間、自社オフィスでシステム開発の仕事だけを行うのは正直退屈だった。
学校では、毎日何かしらイベントが発生する。学生の悩みや相談事を聞いたり、うまく行かないこともあれば、学生の成長をいっしょに喜ぶこともある。
刺激の少ない生活に飽き始めていた頃だった。
「代わりの学校を設立してほしい」
専門学校に残してきた学生の保護者たちからの要望だった。
筆者が退職するタイミングで、まだ学生生活が残る学生たちについては、元々ボランティアで教育と就活支援を行う予定でいたが、その学生の保護者たちは学費を払ったほうが持続性を持って教育してもらえるのではないかと考えていた。
そこで、その年のゴールデンウィークを使って、一般社団法人の立ち上げについて調べた(当初NPO法人にしようと思ったが、認可に時間がかかるということと、株式会社や合同会社では営利色が強く見えるので避けた)。そして、連休明けに保護者会を開いて、保護者の最後の意見を聞き、5月中旬に、エンジニアの養成と就職支援を行う教育機関「一般社団法人HOPTER TECH SCHOOL」を立ち上げた。
元々「HOPTER」とは、ドラえもんの道具「タケコプター」の英語版の名前。筆者のシステム開発会社「合同会社4D Pocket」は、ドラえもんの四次元ポケットの英語名から名付けたものなので、四次元ポケットから出てくる道具のひとつで、頭に取り付けることでどこまでも高く飛んでいけるという意味合いとして、一緒に創業した方から提案された。当初は「HOPTER SCHOOL」だったが、エンジニアを養成するスクールということがわかりやすいほうが良いと考え、「TECH」をつけて、「HOPTER TECH SCHOOL」となった。
初年度は、専門学校から引き継いだ研究生5名、2年生5名、1年生6名の計16名からのスタートとなった。
資産ゼロからのスタート
HOPTER TECH SCHOOLでは、専門学校時代と異なり、教職員2名(2年目から非常勤講師1名が追加)しかいないので、教育・事務のすべてを自分自身で行う必要がある。
学生募集、広報、日々の授業、学生対応、保護者対応、法人会計等々
専門学校時代から家にはほぼ寝るために帰るような生活をしていたが、立ち上げの年はついにはほとんど帰ることがなくなるほど忙しかった(2年目には、ついにオフィスの廊下で倒れて学生に救急車を呼ばれかけた)。
業務量もさることながら、専門学校時代に築いてきた文化の継承が断絶したことが原因だった。例えるなら、繁栄していた文明がすべて崩壊し、過去の栄光の記憶をもとに作り直していくような感じだろうか(Dr.STONE?)。
初年度は、学費を低価格に設定していたこともあり、創業者2名で100万以上のポケットマネーを注ぎ込んでのスタートだった(ちなみに、HOPTER TECH SCHOOLは3期になるまで赤字の自転車操業の状態で、創業者の資金と「合同会社4D Pocket」の資産に頼るところが多かった)。
教育内容は専門学校から引き継いでおり、コロナ禍の影響を受けつつも、受賞等の実績も同様に継続できていた。
HOPTER TECH SCHOOLで一番思い出に残っているのは、IT×お化け屋敷「怨の家」だろう。学生と制作のため何度も徹夜を繰り返し、夜はマクドナルドを貪る日々を過ごした。お化け屋敷の前後は、展示会他様々なイベントが重なっていたこともあり、一番の思い出と言いつつも、ほとんど記憶に残っていないのが正直な話である。
名古屋文理大学(2022〜)
2022年より名古屋文理大学で教員として働いている。
実は、教員となる4年前より長谷川先生より名古屋文理大学で教えないかとお声がけいただいていたが、専門学校の教員だったためお断りしていた。そのため、満を持して大学教員となった。
学生と時間を共有すること
大学での勤務は、前述のスクールもあるため、週2日程度の契約となった。
ただ、これまで常勤講師しか経験してこなかった筆者は、その違いに初年度苦しんだ。筆者は専門学校時代、常勤講師と比べて非常勤講師は教育上不利だと考えていた。それは、週1回の講義の中で学生に厳しいことを伝えたとして、常勤講師であれば他の機会を見つけてフォローすることができるが、非常勤講師はそもそも大学にいないため、次の週の講義のタイミングまで待たなければならない。そのフォローの遅れが、学生との信頼関係を壊す可能性もある。
常勤講師と非常勤講師の違いについて理解していたつもりだったが、初年度は違いを意識することなく教育を行ったため、手痛い授業アンケートを書かれる結果となってしまった。
また、アプリ開発プロジェクトという学年をまたいで学生が自主的にアプリを開発するプロジェクトの担当になった。教員の役目は学生のサポートだと考え、週1回の講義の中でいかに効率よく指示を出すかを考えていた。ただ、なかなか学生の信頼を得ることができず、アプリが完成せず、ほぼ成果を出すことができないまま1年目が終わった。
このとき、スクールでも教育の壁にぶつかっていた。HOPTER TECH SCHOOL、名古屋文理大学、その他非常勤大学と、筆者が午前・午後の単位で移動しているため、スクールに滞在する時間が少なくなった。そのため、チャットツールを活用して効率よく学生に指示を出していたつもりだったが、学生とのすれ違いが多く発生するようになった。
教員を始めて、初めてぶつかった壁だった。
いつもなら改善案をすぐに思いつき、方向性を修正するのだが、このときは何も思いつかなかった。これまでの教育がたまたまうまくいっただけなのか、たまたま優秀な学生を教えていただけじゃないのかと考えた。
2週間ほど悩んだ末、これまでとの違いは学生との接触時間にあるのではないかという結論に至った。たしかに、これまでひとつの学校で教えていたときは、家族よりも長い時間学生と顔を合わせていた。
そこで、打ち合わせの間の短い隙間時間でもスクールに顔を出すようにした。大学や他の仕事が終わって、学生が困っていたら、深夜でもスクールに向かった。大学では、講義後も大学が閉まるまで学生と話し合うことにした。大学には毎日は顔を出せないため、チャットツールでグループを作り、学生から連絡があったら深夜や休日かかわらず、即レスを返すように心がけた。
すると、少しずつ成果が出始め、現在では全国の開発イベントで7連続受賞する結果となっている。
モノづくりは大なり小なり命を削っているというのが筆者の持論である。学生に作品を作らせるということは、命を削れと言っていることと等しい。そう言うのであれば、教員も命を削る(作品を作る)べきだろう。
ハッカソンに出ろというのなら、教員もハッカソンに出る。展示会で作品展示しろというのなら、教員も展示会で作品展示する。
筆者が進学したIAMAS(情報科学芸術大学院大学)では、教員を「さん」付けで呼ぶ文化があり、専門学校でも一部の学生は筆者のことを「さん」付けで呼んでいたが、一部の教員によって「先生」呼びに変更させられていた。しかし、教員は「先生」と呼ばれるから偉いのではない。
学生と長い時間を共有し、苦楽をともにすることこそが、信頼関係を築く遠い道のりのようで近道だということに気づいた。
各主幹との約束
アプリ開発プロジェクトには、主幹と呼ばれる学生代表が存在する。アプリ開発プロジェクトでは、主幹は互選ではなく前主幹による指名制度としている。
筆者がプロジェクト担当教員になった初年度の主幹が辞める際に、下記のような約束をした。
「今後は1〜2ヶ月間隔でハッカソン等の開発イベントに参加して、定期的に作品を作るようにすること」
2年目の主幹が辞める際には、下記のような約束をした。
「アプリ開発プロジェクトは学内ではなく常に学外に目を向け、大学のサイトの学科ニュースをプロジェクトの活動で埋めること」
どちらの主幹との約束も達成した。
現在プロジェクトの担当となって3年目である。現在の主幹が辞めるときは、どのような約束をするのか。怖くもあり、楽しみでもある。
まとめ
8年間の教員業を振り返ってみた。
振り返ると毎年試行錯誤を繰り返しながら、新しいことにチャレンジし続けてきたように思える。冒頭でも書いた通り、筆者は基本的には教育には興味がない。ただ、日々成長したり、毎年入れ替わりがある様々な学生と毎年新しいことにチャレンジしてモノづくりを行った日々は他の職種では得られない楽しさがある。
筆者の座右の銘に下記のものがある。
何事もルーティーンワークになってしまうと飽きる。飽きないためには、日々新しいことに踏み出していくことが大切だ。
そういった意味では、いまのところ教育に飽きたことはない。飽きたときが筆者の教員の終わりを意味すると思う。
ただ、幸いにもまだ当分は飽きることはなさそうだ。
いろいろと書いていたら、8500文字を超えてしまった……。