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拝啓 中村憲剛 様

 十八年間のプロサッカー選手生活、お疲れ様でした。中村選手に感謝の気持ちを伝えようと思いを巡らせていますが、築かれた偉大なキャリアを前にして、どんな言葉もそれに見合わないような気がします。失礼に当たる部分もあるかもしれません。しかし、勇気を持って、心からの感謝を伝えたいと思います。

 初めて中村選手のプレーを眼にしたのは、川崎フロンターレで頭角を現し始めた二〇〇四年から二〇〇五年頃だったと記憶しています。雑誌で中村選手の名前を見つけ、「パスに特徴を持った選手」と紹介されていたと記憶しています。

 スリムな体型から繰り出すパスは消えることのない、鮮やかな残像を僕の脳裏に残しました。実際にそのようなプレーがあったかはわかりません。しかし、思い浮かべる中村選手は遠くを見据え、右足のインサイドでパスを繰り出します。マイケル・ジョーダン選手やイチロー選手のように、名前と「プレーの型」を連想できる選手は稀でしょう。多くの努力を注ぎ、キャリアの早い段階で普遍の型を築かれたことに敬意を表します。

 日本代表でも高い技術を遺憾なく発揮されました。特に二〇〇七年のアジアカップで見せた中村俊輔選手と遠藤保仁選手とのパス交換は気の合う仲間と会話をしているかのようで、テレビの前で心も身体も笑みを抱いたことを昨日のことのように覚えています。

 そして、三年が過ぎて迎えた初めてのワールドカップ。南アフリカの地でパラグアイと相対し、延長後半の玉田圭司選手のクロスが中村選手の頭上を越える瞬間、ハーフウェーライン上で膝をついてペナルティキックを見守る姿、帰国後に再び対戦したパラグアイを相手に通した香川真司選手への針の穴を通すようなパス。日産スタジアムで観戦していましたが、すべての場面がその一本のパスによって浄化されていくような感覚を味わいました。

 ジュニーニョ選手。鄭大世選手。大久保嘉人選手。小林悠選手。中村選手のパスを受けて輝いた選手たちの光は色褪せません。その時々で、そのパスは異なる色彩を持ち、キャリアの経過とともに色味が深まっていったような印象を受けます。

 中村選手は数多くの指導者と出会い、求められる役割を果たしながら、同時にご自身の色で戦術を染められていたように映ります。友人との会話を紹介させてください。

「中村憲剛が会社の同僚だったら、最高だろう」

誤解を招く表現かもしれません。しかし、これ以上に適切な表現も思い浮かびません。自分自身が輝き、周囲も輝く。いかなる場でも求められる、そんな理想を中村選手は常に体現されていたように思います。それがどれほど難しいことか、僕は想像することしかできません。多くの苦労や困難もあったことでしょう。だからこそ、中村選手の周囲は美しさと温もりであふれているのだと想像します。

 川崎フロンターレは紛れもなく、人肌を感じさせるクラブです。新メインスタンドが完成した二〇一五年。僕は初の公式戦となるヴィッセル神戸戦を現地で観戦しました。それは偶然に近いものでした。しかし、等々力に漂う空気の一粒一粒は温もりを内包し、それらは陽光やサポーターの声援を受けて煌めいていました。それから等々力に通うようになるまで時間はかかりましたが、その時に体験した高揚感が僕の背中を押すきっかけとなったことは間違いありません。

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 中村選手は謙遜するでしょう。しかし、十八年を投じた川崎フロンターレには中村選手の意志や人柄が刻まれています。サッカーに対する向上心、探究心、サッカーに関わる人々を大切に思う気持ち。それらが凝縮され、川崎フロンターレというクラブの遺伝子を形成しているように思います。誰しもが持ち得ない「理念」を作っていただき、ありがとうございます。

 等々力で開催された十月の仙台戦。交代するまで、中村選手のプレーだけを食い入るように見つめていました。ディフェンスラインから出されたボール。ワンタッチのパスは反対サイドに緩やかな弧を描く。違う場面では弾丸のようなパスをディフェンスラインに戻す。左から右へと流れる動き。相手選手の間で止まり、スペースへと駆け出す。そして、点を奪えば、キックオフから猛然とディフェンスラインへと迫り、相手の戦意を削ぎ落とす。

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 そのすべてを理解しているとは思いません。しかし、中村選手のプレーを眼にしていると、すべての動作、視線、間の取り方、身体の姿勢、キックの種類などに勝利への狙いや意図が感じられます。相手の息遣いを察知しながらプレーしている。相手がいるサッカーというスポーツにおいて、当然のことかもしれませんが、それを感じさせるサッカー選手が少ないことも事実ではないでしょうか。その息吹が大島僚太選手、守田英正選手、田中碧選手を筆頭に、日本サッカーを支える選手たちに受け継がれていることに心が動かされます。

 十月の多摩川クラシコで中村選手が決めた決勝ゴールを眼の前で見ていました。三笘薫選手からのパスを受け、振り抜いた左足によって踊るゴールネットと拳を振り上げて喜ぶ姿は記憶に色濃く残っています。その一連の流れは川崎フロンターレというクラブの脈動と中村選手の枯れることのないサッカーに対する愛情を眺めているようで、身体は幸福で満たされました。

 中村選手に会うため、長女と一緒に麻生グラウンドを訪れた記憶は僕の宝物です。

「娘さんはいくつ?うちのと近いね。下にもいるんだ。奥さんが大変だね」

近所の知り合いと会話しているような雰囲気は、等々力で感じた人肌の気配と寸分も変わりませんでした。激しい練習でお疲れの後、長女を抱っこして一緒に写真を撮っていただき、持参したユニフォームにサインもいただいたことは忘れません。今季はお会いできませんでしたが、新しく購入した背番号十四のユニフォームを手に、麻生グラウンドを再び訪れる日がくることを期待しています。

 プロサッカー選手として感じられていたであろう、日々のコンディション維持や体調管理によるプレッシャーから解放され、ご家族とより一層充実された時間を過ごされることを願っています。そして、近い将来、中村選手にしかなし得ない形で日本サッカーに寄与されること、どういった形であれ、川崎フロンターレのさらなる発展、AFCチャンピオンズリーグ優勝、FIFAクラブワールドカップ優勝に貢献されること、中村選手がサッカーにおいて大切にされてきた意志を近未来の選手たちに授けていただくことを心から願っています。

 改めて、十八年間のプロサッカー選手生活、お疲れ様でした。美しき記憶の数々は僕の胸で熱を放ち続けることでしょう。

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