食レポ|麺や でこ
多摩川クラシコの前に空腹を満たした。大人しい雨が空から舞い落ちる。潤いをまとった空気に意識を浸しながら歩いた。目当ての店は「麺や でこ」だ。
十七時二十八分。開店二分前。店先には先客がいた。後から現れた老夫婦も僕の後ろに並ぶ。心身をその場に同化させた。百二十秒。
赤のカーテンが上がる。扉が開く。明るい店内はおろしたてのタオルのように僕を出迎える。食券機の左上。「追い煮干しそば」を注文した。カウンターに座り、厨房を見通す。濃厚な海の香りが鼻を通り、その隙間からニンニクも顔を出した。
煮干しの信奉者ではない。しかし、その独特の香りや口当たりは僕の味覚に薄くはない面影を残している。
前から「追い煮干しそば」が供された。モスグリーンとカーキの中間。煮干しだ。レンゲを手に取る。魚のうまみ。熟成。心の中で首を縦に振った。輝く細麺。迫力のあるチャーシュー。前向きなアンバランスがそこに宿る。脇につつましく添えられた岩海苔も箸を握る手に力を与えた。
小説の一字一句の意味を追うように「追い煮干しそば」と向き合った。箸とレンゲを運ぶのに合わせて「煮干し」の言葉が火を灯すように浮かぶ。泥臭さも感じるスープには海のエキスが凝縮されている。その絶妙な調和をチャーシューは乱さず、鶏肉は香水のように柚子を放った。
スープを口に運ぶ手が止まらない。名残惜しさを残し、その手を止めた。店を出て傘を開く。舌と鼻の間に煮干しの風味が今も漂う。残り香を楽しみながら、僕は等々力陸上競技場へと意識を切り替えた。