目に見える格差
将来何をしたらいいですかねの問いに
何がしたいの?
何になりたい?
常套句のように繰り返される件だが、歳も重ねてきたので若い子に聞かれた時に思う事がある。
新しく何かを始めるのに早いも遅いもない。
幾つになっても挑戦するのが素晴らしい的な思想
これは本当なのかな。と深掘りしてみる。
20年、30年勤めた会社を退職し、新たな仕事をする事を脱サラとか言う。
脱サラリーマンとはもはや若くない素人という意味で希望的な要素は無く、むしろ軽くdisってる様にすら感じなくはないか?
脱サラの語源の深層心理は挑戦の他に日本人特有の継続性の美学だったり、決断力の嫌悪のようなものに似ていて、反対に若い頃に打ち込んだもの、例えば猛勉強して良い大学に行けた、一生懸命努力して何かの結果が得られた、同じ仲間達と切磋琢磨した事、続けた事による偶然の産物なども含めてよりポジティブな話になる。
そしてここでは特に〝若い頃〝がキーワードになる。
脱サラした時に〝若い頃〝をなんとなく過ごした事によりバックボーンの無さに愕然とする。
またはやってきたはずなのにそのバックボーンの実用性に。
人は過去を美化する傾向があるから後悔感も増す。
どの業態にも通じて言えるけど、若い頃に切磋琢磨した事が抗えないヒエラルキーを作りあげる。ここにも充分思い出補正があるから更に加速し、脱サラを受け入れられない理由になる。
業態に応じて違うけど、脱サラ含めたその分野で所謂若くない部類の人達が一つだけ勝てる方法がある。
ぐうの音も出ない程の結果を出す事
自分で書いててまさにぐうの音も出ない程ゾッとしてるけど、今自分もいい歳して新しい事に挑んでいる。
抗えないヒエラルキーに美化される過去を抱えながらも、自分は楽しくて死ななきゃいい位に思ってる。
そんなおじさん、おばさん沢山いるといいなぁ。
そして初めの問いに何ら答えていなかった。