リベラリズムの自由
フェミニストによる無責任な言説がいまだにネット上で需要があるのを見るとうんざりする。言説自体は幼稚であり取るに足らないものだが、あの無責任な考え方はフェミニズムのみならず幅広く共有されているように思う。
フェミニズムやグローバリズムなどの現代のリベラリズムの文脈で語られる自由は同じだ。彼らは国境、国籍、人種、性別、伝統などによって生じる制約から解放されることを自由と考えている。人間はあらゆる制約から解放されることによってより良く生きることができるという単純な想定があるのだろう。
愚かなのはこれらの制約から逃れたところで新しい制約が発生することを理解していないことだ。現に国境を取り払い多文化共生となれば表現規制を始め様々な配慮が必要になっているし、伝統的な女性としての役割を放棄すれば男性と同様の責任を求められる。
人間は環境の制約から解放されることはない。であれば自由とは制約を受け入れてその中で主体的な選択をすることだ。福沢諭吉が言ったとされる「自由は不自由の中にあり」はそういうことなのだとおもう。
「~からの自由」という消極的自由を延々と求め続けるのが現代のリベラリズムであり、フェミニズムはその病理の一側面なのだ。
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