規制とルールを無くせば良いという愚

私は中学生ぐらいまで、テレビに出てくる頭の悪いコメンテーターなどから影響を受けて何でも規制を無くせば良いなどと思っていた。今考えるとこんな考えは放任主義とかアナーキストと馬鹿にされて終わる様な話だ。しかしながら、未だにこの幼稚な考えを持っている人が年齢学歴問わず多数に支持されているのを度々観測する。

そういった人たちの多くは論理的思考が苦手な人や、あるべき論から現実への認識を捻じ曲げてしまう様な頭でっかちのエリートなどである。彼らに理解してもらうにはどの様に説明すれば良いか考えてみた。

歴史から説明を試みる

そもそも規制とルールが無いなどありえないのだが、国家がなく限りなく規制のない、狩猟採集によって生計を立てていた時代を考える。殺人や強奪さえ規制されない究極に自由な状態である。

農耕や牧畜が始まると人口は急激に増えた。そこから文明ができ、政治や経済、国家が誕生する。当然そこには規制やルールが存在する。

狩猟採集を主にする集団はこれに勝てなかった。自由競争の結果、規制やルールを作った集団が勝った。規制やルールは天から降ってきたわけではない。自由な活動の結果、人々は団結し、規制やルールを作った。

現在の社会もこの延長にある。社会主義や共産主義、独裁であっても、様々な規制やルールは人々の自由な活動の結果生まれたものである。であればそれを無くせばどうなるか。新しい規制やルールができるだけだ。更には前のものよりも粗悪である場合さえある。

規制はどの様にできるのか

規制がどの様に作られるのかを考える。規制がまったくなかったとしても行動に制約は発生する。「指切りげんまん」が典型的だが、とある2者間で約束や契約をする際にはそれを守らせるため、裏切った際の脅し、不利益を用意する必要がある。それは賃貸契約の乱暴な保証会社、企業間の業務・資本提携、国家間の軍事力など現在も様々な物がある。そしてその保証の用意は非効率である。そこで可能な限り国家による規制で保証をするようになった。

要するに自力救済のコストを国家に任せることで効率的な経済活動が可能になったのである。

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