競争信仰の所感
競争がすべてを解決する万能策のように語っている人をよく見る。特定の対象を批判する際に「競争が無いのは悪い、競争原理を導入すべきだ」などという趣旨の主張がされている。競争に勝ったものは正しいという信仰だろう。
競争に勝ったものが正しいとは限らない。むしろルールの欠陥を見つけるか、バレないように不正する方が有利である。完全に自由に競争をした場合、勝った方が悪質であることもある。だからこそ競争には様々な制限が必要になる。
スポーツにおけるルール、それを守らせるための審判、スポーツマンシップが確認されることによって競争に勝ったものが正しいと言える。審判が未熟である場合や審判の買収、巧妙な反則行為によって勝負が決してしまうのはそれほど珍しいことではない。それを防ぐためにルールの変更、カメラ判定や機械による審判、フェアプレーポイントなどの取り組みがなされている。
市場競争においても独占禁止法などの法律や規制、それを取り締まる行政、不正をしない道徳心、これらが無ければ勝ったものが正しいなどとは言えない。誇大広告やFUDなどを見れば市場競争もまた望む形になっていないことがわかる。これらを取り締まるには大きな政府と政府の腐敗を監視する仕組みが必要になる。それが不可能だから小さな政府にして勝ったものが正しいという信仰が必要になる。
競争を正しいものにするにはその価値観に基づいて環境を整える必要がある。規制やルールが緩和されていくということは価値観の影響を減らすということであり、望む形からは遠ざかる。もっと言うならば独占状態や競争が発生しない状態であっても環境が整っていればより良い結果になる。
文系特有のしぐさ?
ここからは私の所感である。
「競争がない、競争を導入すべきだ」という意見の本音はなんだろう。競争には様々な形があり、環境によって良し悪しが変わってしまう。重要なのは環境の方であって競争ではない。にもかかわらず「競争を導入すべきだ」というのはどういうことか。
本音は「俺の言うとおりにしろ」である。発言の際に「俺の考えるすばらしい競争」が頭に浮かんでいるのだ。
類似のものとしてジェンダー学(フェミニズム)がある。
特に問題のないイラストに対して「女性蔑視だ、女性蔑視をやめろ」という意見の本音は「私の言うとおりにしろ」である。頭の中には「私の考えるすばらしい男女平等」が頭に浮かんでいる。
経済学もジェンダー学も馬鹿にされているが「経済学を学ぶ理由は、経済学者に騙されないため」と経済学者が言ったらしいのでジェンダー学よりはましなのだろうと思う。
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