秘する女神のコラージュ〈2〉
2 呪いと乙女、祈りの娘
彼女はベッドに横になっていた。鉄筋の冷たいアパートの一室、夜明け前らしく辺りは暗い、床は木目が豊かなフローリングである、家具は殆ど無いが分不相応に大きな鏡台が置かれていて其処には火の付けられた蠟燭が置かれていた。部屋の壁は無数のスワッグが飾られていて、其等は暗闇の中、小さい光を集めて輝いている。ガラス瓶には大きな薔薇の花束が飾られていて、部屋は植物の薫りに包まれているが、気付くと耐え難い程の寒さが彼女の肌を舐めた。彼女は起き上がり、身に着けた衣類に何重もの布を巻き付けて、吸い込まれる様に、鏡の前に座り、其処に映し出された、顔の無い、自分の姿を見た。彼女は一瞬震え、震えた手で自分の顔の、鼻や口を触った。其処には確かに凹凸が在り、各顔の部分に不足は無く、肌はしっとりとしていて、細かい産毛が感じられたが、鏡の中には、丸で背景に融け込んだかの様に、パーツが存在していなかった。最初に在ったのは驚きであり、次に、憤りが現れた、憤りは言葉に出来ず手足から脳天へ向けて飛び出して行くマグマの様に感じられた、だが、彼女は何に向かって怒れば良いのか分らず、唯、混乱した。
顔が無くても、生活はして行ける、目が見えていて、薫りが感じられて、食べ物が食べられるのであれば、顔が顔らしく無ければならない理由は無いのだ、彼女は思った。顔が無ければ、結婚は出来ないだろう、《いや、どうして結婚出来ないと感じるのか、其は相手次第であり不可能ではない》《でも、出来ないだろう》、でも、其の心配は、私が結婚を求めた時の心配だ。顔が無ければ男に愛されないだろう、《そんな事も無い、然し、やはり私は愛されないだろう》、でも、其の心配は、私が男に愛される事を求めた時の心配だ。然し、化粧が出来ないと云うのは、どうだろう、見えない顔に、化粧を施す事は出来るのだろうか。
窓の外で、冬の朝日が少しずつ上がって来る気配が在る、辺りは暗く市街地の街並は闇に溶けて、昨夜の空爆で建物が破壊されたのだろう、何処からとも無く、異臭が部屋に這入って来る、そして、何かが満ちる様に街に雪が降っていて、窓の手前には、顔が無い彼女の姿が映し出されていた。
此の天気だと、きっと、原子力発電所は見えないだろう、彼女は思った。
彼女はキッチンに行き、コーヒーを淹れようと、豆をミルで轢き、ヤカンに水を入れ、其を焜炉に置いた、然し、ガス焜炉にガスが来ていなかったので、其を諦めた。
また、練炭を買って来なくては、彼女は思った。
彼女は朝の家事を諦めて、炊き出しを貰いに行く事にした。彼女は再び鏡台の前に座り、其の顔の無い姿を見ながら、乱れた髪に櫛を通した。そして、部屋着類を脱ぎ、出かける為のシャツの上にロングカーデガンを着て、ズボンの周りにスカーフを巻き付け、フード付きのやや古びたコートを羽織って、大きなマフラーを首に巻き付けた。そして、履物を履き替え部屋から出た。
アパートメントから出た彼女は、其処の庭から見える、大きなプラタナスを見上げた、剪定された枝は天へ向かう亡者達の掌の様に見える。彼女は雪を踏み締めながら、アパートメントを囲う鉄格子を開け、通りに出た、街路樹は黒々とした街を縁取る様に、人々を環状通りに導いている様である。辺りは暗く冷え込んでいて、人の気配は殆ど無かったが、花屋の青年が一人、小さなバンに沢山の花材を詰め込んでいるのが見える。
「おはよう」彼女は云った。
「ああ、おはよう」花屋の青年は云った。彼はペンギンの嘴の様な物が付いた妙なフードを被っていて、其は厚いコートに連なっている、衣類は着慣れていて汚れていたが、其は日常的なものに見えた、丁度絵描きの衣類に絵具が着いている様に。愛層の良い声であるが、奇妙な印象が在る男である。
「内戦中なのに、花は売れるの」彼女は近くに落ちていた瓦礫を蹴飛ばしながら尋ねた。
「死人が出る度に売れるよ」花屋は無表情に云った。
確かに、そう云う意味では旬な仕事なのだろう、彼女は思った。
「花が売れるのは、気に入らないかい」花屋は尋ねた。
彼女は首を振って応えた。「不思議に思っただけ」
「こんなチェルノブイリの近くに在って内戦続きの市街地に花屋が在る事が不思議かい」花屋は尋ねた。
いや、違う、彼女は思った、私の様に顔が無い女に、愛想良くする此の男が奇妙なのだ。「売れると良いわね」彼女は再び瓦礫を蹴って云った。
「どうかな、花が売れると云う事は死人が出る事だ、でも、まあ、花も飾られないよりは増しかな。所で、炊き出しを貰いに行くのかい」花屋は尋ねた。
「ええ」
「良かったら、此の塩とタバコ、畜生今は二本しか渡せない、此でパンとコーヒーを買って来てくれないか、朝は忙しいんだ、御釣りでカフェに行けば良い」花屋は箱から出されたタバコと塩が入った袋を出し、其を彼女に渡した。
「塩とタバコ」彼女は其を受け取って云った。「こんな物で食料が買えるの」彼女は尋ねた。
花屋は手に持った最後のタバコに火を付けて微笑んだ。「ああ、試してみれば判るよ。此処では物資が不足していて、通貨価値が低いんだ」
ああ、そうだ、当たり前の事だ、彼女は思った。「ええ、そうね、そうだった、買って来た物は店の前に置いておくけれど、其で良いの」彼女は尋ねた。
「ああ、其で良いよ」
「あなたのタバコが切れるみたいだけれど」
「問題無いよ、花だってタバコで売るのだから」
ああ、そうね、彼女は其の様に思い、微笑した。
雪降る雲の向こうの太陽は音を立てる様に這い上がって来て白々と照らし始めた、破壊も喧噪も、躊躇いも迷いも、何もかもを雪が隠して行く街の、片隅に立つ一人の女へ向けて。
×
私は何の為に生きているのだろう、五月女(さおとめ)真糸(まいと)は思った。《何処までが私だろうか、何処までが他人なのだろうか》
春の雨が桜を散らす、冷たい午後、浮かれた慌ただしい一日を終えた彼女は一人青山周辺を歩いている。渋谷からの帰路、揺らす傘は透明のビニールで、片手には鞄を持ち、長い髪の毛がコートに掛かり、紺色のスカートからは白い肌が見えて、色白の顔には品の良い黒縁のメガネが在り、整った目鼻立ちに表情は見られない。彼女の視線には青山霊園が目に這入っていて、丘の上全体は桜の薄紅の屋根となって見える。やがて、陸橋を渡ると、花も枝も細かく複雑で、一様では無く、薄紅は黒々とした墓標を柔らかに抱いていた。丘に這入る前は、丘全体がピンク色の甲羅の様に見えたのであるが、其等は弾力があり、伸縮していて、白さが濃く紅が薄い吉野桜は、冷たく在り、何か抑え難い力と共に、雨の中を散っていた。
桜は何の為に散るのだろう、彼女は思った、夥しい程の花びらが、一時の盛りを終えて、アスファルトの上に積もっている、其等は生きているのだろうか、《或いは死んでいるのだろうか》、其等に意味など在るのだろうか、《或いは意味無く咲いて、意味無く散るのだろうか》私達少女は、何の為に生きているのだろう、私も又、意味無く咲く花の一輪なのだろうか。意味とは何だろう、其は今と関係しているのだろうか、其とも、未来と結び付いているのだろうか。《其は必然的でなければならないのだろうか、未来と必然で結び付いていなければ、意味と云えないのだろうか》《此等互いに自縛するもの廻る、咽び泣く儚い虫》
宝石の様な雫を乗せた薄紅に風が叩きつけて来て、華は首から落ちて行く、其の落ちる先の水溜まりには、無数の花びらが在り、其等は既に、誰かの足が踏み潰した後であった。
私の未来、例えば高校を卒業して大学を卒業して、社会に出て、《社会に出る、出る、とは何だろう。学校に入り、会社に入り、社会に出る、では、社会は広いもので、学校は檻の中なのだろうか》《或いは、学校と云う檻から、社会と云う檻へ移動させられるだけなのだろうか》、そして、結婚して、《家庭に入って》、子供を産む。《子供は出て来る》《何処に出て来るのだろう、閉じられたものが体内から閉じられた世界へと移動する事は、出て行く事なのだろうか》ならば其処、《其処とは未来の事だろうか、其とも此の春の雨の事だろうか》、に意味が在るのだろうか、子供を産み、其の子供が子を産む、其の連続を意味と云えるだろうか。《其処には何の味わいもない、少なくとも私には》、此の煩悶は何だろう、私の頭が悪いから、今生きる事に意味を見出せないだけなのだろうか。だとしたら、頭が良いと、此の訳の分からないマトリョーシカに意味を見出せるのだろうか。《だとしたら此の様にデザインした教師は無能極まりない》
ぶら下げた鞄、其の中に重たく詰め込まれた、教科書とノート、無数の記録、湿気を含んだ衣類の重み、其等一つ一つが、彼女の伸び縮みする四肢に疲労を塗り重ねて行く。
世界は不親切だ、彼女は思った、意味在る事をしろ、と云いながら、何が意味在るのかを教えない。《意味の果実を食べたとして、私は歓喜して我を失うのだろうか》たとえ、其等、並べられた未来に意味が在るとして、私は其を受け入れるだろうか。《其の必然の約束は何処だろう》《寧ろ、其等未来は、私に押し付けられている義務に見える、社会が求めるから進学して、社会に出て働き、社会が子供を求めるから産む、其処には私の意志等は無く、本当は意味も無い、かも知れない。そして、其等は意味らしい言葉で讃えられているだけの他人の欲望なのだ》此の桜の様に、美しいから並べられ、時と共に散って行く。ああ、頭の中にノイズが渦巻いている。《どうしてこんな事を考えるのだろう》春だからだろうか。
今朝は珍しく父と喧嘩した、父は衣類に煩く云う方では無いが、私が穿いていたスカートが短い事を冗談混じりに咎めたのだ。其は、別にスカートが短いからどうしろと云う心算は無いけど少し馬鹿みたいに見えないか、と云う様に、私には聞こえた。
「短いからどうしたの」真糸は尋ねた。
「いや、少し短く見えただけだ」父は云った、そして、自分の眼鏡に触れてコーヒーを口にした。
「短いと、何か問題でもあるの」彼女は尋ねた。
「いや、可愛くて、チャーミングだ、少し寒いからどうかと思うけど、美しい足だ。君は公立高校を選んで進学した、衣類は自由だ、君がどんな物を身に付けても問題は無いよ」
「問題ではないけど気に入らないのね」
「僕の意見なんて聞くべきじゃない、其が自由だろう」
「聞くべきじゃなかった、でも、云った、つまり、云うべきじゃなかった」彼女は云った。
「そうだね」父は少々呆れて、其を認めた。
「云うべきじゃないけど、敢えて云った」
「ああ、何となく、でも、云うべきじゃなかったかも知れない」
「でも云った」私はどれぐらい此の問答を続ける心算だったのだろうか。「其は私が聞くべき意見だと父さんが考えたからでしょう。父さんは、私が娘として、耳を傾けるべきだと考えた。如何なる内容でも、娘なら聞くべきである、と考えた、其が些末な問題だとしても。学校が衣類の自由を認めていて、其でも親は子供の意見を聞くべきで、子は親の云う事に耳を傾けるべきだと考えた、違うかしら」
《如何にも〈思考の公務員〉らしい物言いで私達は続ける、こう考えるべきだ、と》《こう考えるべき、と考える事自体が、こう考える事を強制している》
「えらく絡むね。僕が間違っていたよ。君は頭も良いし、自分の意見も持っている、自分が何をするべきか知っている、だから自由を認められている衣類に僕は意見を云うべきでは無かった、申し訳ない」
恥ずかしかった、《刑は執行された》、私は其の様に云うべきでは無かったのだ。《でも、思い付いた事を云ってしまった、何より、父の言葉から連想されるものは、何者かになるべきだ、と云っている様に思えた》《故に、死刑は公然と執り行われるべきだ》でも、父さんは其の様な事を云いたかったのでは無い、唯、朝の会話を楽しみたかっただけなのだ。《でも、本当は父さんも判っている、少なくとも、私は母さんの様に生きるべきでは無いけれど、母さんに似て来ている》《此の気性、此の云い返し方》そして其の様に思い出す事が恥ずかしく、腹が立って仕方がない。
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