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アートライティング・フォー・(しかし、それらもまた風景である。)〈Art writing for ⅷ-ews with a lot of views〉#5

 
 八景を巡る旅も半分が過ぎました。今までは長いイントロダクションを載せて混乱がないように書いてきましたが、これからはスタイルを変えようかと思います。
 前回はこちらより。

平潟落雁

和歌


ホームページより


跡とむる真砂に文字の数そへて 塩の干潟に落る雁かね

(この世に精一杯生き永らえようと
砂のように繊細な数多の文字を綴って飛んでいる
塩田のある平潟を上を
雁が列をなして飛んでいる)

p.166より

平潟湾


 美術館から出た訪問者と案内人は河口に出ます。瀬戸秋月から見えていた大きな湾、平潟湾です。


ホームページより

 美術館から次の目的地へは遠くないようです。岸に二人が近づくと、干潟が見えてきます。干潟にはいくつかの小屋が点在してます。

 岸に近づいていくと、干潟の遠くの方が顔を出してきた。この干潟が、彼女が作ったものらしい。
 (中略)
 加工から見下ろす干潟にはいくつかの小屋がぽつぽつとあった。干潟はゆるい楕円形に近い形で2つ。湾に浮かぶ島みたいにぽっかり広がっている。
 (中略)
 小屋はブルーシートと単管でできていたり、ガラスでできていたり、鏡でできていたりした。

p.174上段

 

p.175より


p.175より

 岸から干潟、干潟から干潟は5cmくらいの浅い水辺になっています。人々は素足になって水を渡ります。
 (中略)
 小屋はこの港町でよく見られるブルーシートと単管でできていたり、水を透かすガラスでできていたり、水面を写す鏡でできていたりします。

 これらはほとんど直方体ですが、それぞれ微妙にポロポーションが違っていて、どれもわずかにいびつだったりしています。近くの小屋は小さめで遠くのは背が高かったりして、どれも上面がゆがんでいます。

p.174下段より

 どうやら、干潟と其処に建てられた奇妙な小屋が今回の企ての建築物であるようです。雑多で、一見して、なんの目的のためにあるのかわかりません。確かに、湾に干潟を作り、其処に小屋があれば、非現実的な感じがしていいかもしれません。
 二人は、スロープを使って、干潟へ降りてゆきます。設計されたスロープ以外の手順で降りることはできないようです。

p.178より


p179より

 スロープを下ってゆくと…


p.180〜p.181

 全ての小屋の高さが一直線に並び、水平線が見えました。

 干潟に降り立つ。
その時視野は、海一色になった。

p.177上段

 まるで手品のような風景のコンセプトです。

ばらばらで少しゆがんだ小屋たちは、この一点からみると雁のように一列に並びます。

p.177下段

 案内人は仕掛け、訪問者はそれに出会います。二人の度重なる邂逅が今度は水平線になりました。
 この水平線との出会い、水平線に連れて来ること、挟み撃ちのような出会いが面白いと思います。

 私はありきたりな風景にうんざりしています。ですが、私がそう見ているだけで、どこかでは違うかもしれない、と思わせられる一瞬です。

透視する水平線

ワタシは彼方だろうか、手が届かないだろうか、はたまた憧れだろうか。
人はワタシを「はるか彼方」の代名詞としているようだが、羨望の眼差しで眺めてもらうようなものではない。
誰でもワタシになれるのだ。いや、すでに誰でもワタシなのだ。

p.184より

「透視する水平線」は水平線の主体語りによる詩です。ここで水平線は自分自身を問う形で、認識を問います。何者も水平線になれる、これは確かにそうです。はるか彼方になれるものはすべて水平線ですから、何者も水平線です。
 ここで思い出すのはジャック・デリダの「声と現象」の中の注釈の一説です。

(95)自己同一性
(中略)
つまり〈存在〉という視点の設定は、いわば〈生き生きとした現在〉のうちにずれ(差異化)が起こり、通常〈過去〉とか〈未来〉と呼ばれる次元が開かれ、この現在・過去・未来といった次元のあいだに複雑なフィードバック・システムが組織されることによってはじめて可能になる。

声と現象 ジャック・デリダ 林好雄訳  ちくま学芸文庫 p.290


 このようなモチーフの現れは本著「しかし、それらもまた風景である。」に度々登場しているのにお気づきでしょうか?
透明性と反射性(#1)、フレーミング、リフレーミング(#2)、カキワリ/シミュラークル(#3)、道のりと忘却(#4)これらは作品の設計思想、〈機能と意匠〉でいうところの機能です。

そしたらあなたはワタシになる。

16.6kmも歩いてくるのが難しければ、ワタシが見える海岸まで来てほしい。そこにあなたの目を置き去りにしたままで、あなたの身体がワタシに向かって歩き始めるのを想像してほしい。(中略)その時あなたの身体は、ワタシに収束してしまっている。

p.184より

すべてのものは、見えるまなざしの中ですでに何者かである

p.188より

 意匠と機能の揃った、シンプルな詩的デザインだと感じます。

5年前のエピソード ビワの木

 ここで案内人が一つの過去を回想します。これは作者笠松咲樹さんの記憶でもあるそうです。

 或る日用事を終えると案内人は嫌な予感がした。帰ると、昔雑木林に植えたビワの木が伐採されていた。彼女にとって大切な木は或る日唐突に消え失せた。
 しかし、彼女は思うのであった。

その晩わたしは考えました。

わたしは失われたビワを愛せるだろうかと。
ビワと花々をすっかり失い松の木の断面が寒々しい雑木林を、愛せるだろうかと。

わたしは、失われたものも愛せるのだと思うに至りました。

p.194より

 作者の持つもう一つのレシピを見た気がします。

慰撫する海/定食屋

 失われた平潟について、詩で書き直され、何がデザインの中に織り込まれているのかがわかります。忘却と同じようですが失うことも機能になるということでしょうか。

 案内人と訪問者は近くにある小さな定食屋に入り、場面が変わります。こういう一つ一つの風景に膨らみがあるものいいです。

テーマ 失われたものと復活


 訪問者がスロープを下り、平潟湾を見出す時、何が起こったのでしょうか?言い方を帰ると、「海の復活は如何なる機能なのか」ということです。これを示せたら、設計者の意図を上手く汲み取れたと言えるでしょう。ですが、これを私は上手くいえそうもありません。
 これは手品のようなものです。今、この瞬間に潜んだ大きな謎だといえるでしょう。

 文芸では(意識の流れの手法)等で扱われるもので、時間的に不思議な作用として描かれます。それはかつて失われた何かであるのに、今この瞬間に復活したかのように描かれる、というようなものです。自己同一性への疑問です。この自己の現前性への問いに訪れる不思議な作用を如何に私達は共有するべきなのでしょうか。私はこれを芸術的に大きなテーマと考えます。
 ここでは失われたものと復活と書きましたが、〈過去を弔い/未来を遺言する〉というように(しかしそれらも風景である。)に既に含まれているテーマです。
 一つの言い方として、現前性に含まれる非現前性といえるでしょう。では、これについて学び、語り合うのにどうすれば良いのでしょうか?

 ここで示された建築手法は私のヒントになりそうです。

 




 

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