秘する女神のコラージュ〈2 呪いと乙女、祈りの娘〉
2 呪いと乙女、祈りの娘
〈1…〉
彼女はベッドに横になっていた。鉄筋の冷たいアパートの一室、夜明け前らしく辺りは暗い、床は木目が豊かなフローリングである、家具は殆ど無いが分不相応に大きな鏡台が置かれていて其処には火の付けられた蠟燭が置かれていた。部屋の壁は無数のスワッグが飾られていて、其等は暗闇の中、小さい光を集めて輝いている。ガラス瓶には大きな薔薇の花束が飾られていて、部屋は植物の薫りに包まれているが、気付くと耐え難い程の寒さが彼女の肌を舐めた。彼女は起き上がり、身に着けた衣類に何重もの布を巻き付けて、吸い込まれる様に、鏡の前に座り、其処に映し出された、顔の無い、自分の姿を見た。彼女は一瞬震え、震えた手で自分の顔の、鼻や口を触った。其処には確かに凹凸が在り、各顔の部分に不足は無く、肌はしっとりとしていて、細かい産毛が感じられたが、鏡の中には、丸で背景に融け込んだかの様に、パーツが存在していなかった。最初に在ったのは驚きであり、次に、憤りが現れた、憤りは言葉に出来ず手足から脳天へ向けて飛び出して行くマグマの様に感じられた、だが、彼女は何に向かって怒れば良いのか分らず、唯、混乱した。
顔が無くても、生活はして行ける、目が見えていて、薫りが感じられて、食べ物が食べられるのであれば、顔が顔らしく無ければならない理由は無いのだ、彼女は思った。顔が無ければ、結婚は出来ないだろう、《いや、どうして結婚出来ないと感じるのか、其は相手次第であり不可能ではない》《でも、出来ないだろう》、でも、其の心配は、私が結婚を求めた時の心配だ。顔が無ければ男に愛されないだろう、《そんな事も無い、然し、やはり私は愛されないだろう》、でも、其の心配は、私が男に愛される事を求めた時の心配だ。然し、化粧が出来ないと云うのは、どうだろう、見えない顔に、化粧を施す事は出来るのだろうか。
窓の外で、冬の朝日が少しずつ上がって来る気配が在る、辺りは暗く市街地の街並は闇に溶けて、昨夜の空爆で建物が破壊されたのだろう、何処からとも無く、異臭が部屋に這入って来る、そして、何かが満ちる様に街に雪が降っていて、窓の手前には、顔が無い彼女の姿が映し出されていた。
此の天気だと、きっと、原子力発電所は見えないだろう、彼女は思った。
彼女はキッチンに行き、コーヒーを淹れようと、豆をミルで轢き、ヤカンに水を入れ、其を焜炉に置いた、然し、ガス焜炉にガスが来ていなかったので、其を諦めた。
また、練炭を買って来なくては、彼女は思った。
彼女は朝の家事を諦めて、炊き出しを貰いに行く事にした。彼女は再び鏡台の前に座り、其の顔の無い姿を見ながら、乱れた髪に櫛を通した。そして、部屋着類を脱ぎ、出かける為のシャツの上にロングカーデガンを着て、ズボンの周りにスカーフを巻き付け、フード付きのやや古びたコートを羽織って、大きなマフラーを首に巻き付けた。そして、履物を履き替え部屋から出た。
アパートメントから出た彼女は、其処の庭から見える、大きなプラタナスを見上げた、剪定された枝は天へ向かう亡者達の掌の様に見える。彼女は雪を踏み締めながら、アパートメントを囲う鉄格子を開け、通りに出た、街路樹は黒々とした街を縁取る様に、人々を環状通りに導いている様である。辺りは暗く冷え込んでいて、人の気配は殆ど無かったが、花屋の青年が一人、小さなバンに沢山の花材を詰め込んでいるのが見える。
「おはよう」彼女は云った。
「ああ、おはよう」花屋の青年は云った。彼はペンギンの嘴の様な物が付いた妙なフードを被っていて、其は厚いコートに連なっている、衣類は着慣れていて汚れていたが、其は日常的なものに見えた、丁度絵描きの衣類に絵具が着いている様に。愛層の良い声であるが、奇妙な印象が在る男である。
「内戦中なのに、花は売れるの」彼女は近くに落ちていた瓦礫を蹴飛ばしながら尋ねた。
「死人が出る度に売れるよ」花屋は無表情に云った。
確かに、そう云う意味では旬な仕事なのだろう、彼女は思った。
「花が売れるのは、気に入らないかい」花屋は尋ねた。
彼女は首を振って応えた。「不思議に思っただけ」
「こんなチェルノブイリの近くに在って内戦続きの市街地に花屋が在る事が不思議かい」花屋は尋ねた。
いや、違う、彼女は思った、私の様に顔が無い女に、愛想良くする此の男が奇妙なのだ。「売れると良いわね」彼女は再び瓦礫を蹴って云った。
「どうかな、花が売れると云う事は死人が出る事だ、でも、まあ、花も飾られないよりは増しかな。所で、炊き出しを貰いに行くのかい」花屋は尋ねた。
「ええ」
「良かったら、此の塩とタバコ、畜生今は二本しか渡せない、此でパンとコーヒーを買って来てくれないか、朝は忙しいんだ、御釣りでカフェに行けば良い」花屋は箱から出されたタバコと塩が入った袋を出し、其を彼女に渡した。
「塩とタバコ」彼女は其を受け取って云った。「こんな物で食料が買えるの」彼女は尋ねた。
花屋は手に持った最後のタバコに火を付けて微笑んだ。「ああ、試してみれば判るよ。此処では物資が不足していて、通貨価値が低いんだ」
ああ、そうだ、当たり前の事だ、彼女は思った。「ええ、そうね、そうだった、買って来た物は店の前に置いておくけれど、其で良いの」彼女は尋ねた。
「ああ、其で良いよ」
「あなたのタバコが切れるみたいだけれど」
「問題無いよ、花だってタバコで売るのだから」
ああ、そうね、彼女は其の様に思い、微笑した。
雪降る雲の向こうの太陽は音を立てる様に這い上がって来て白々と照らし始めた、破壊も喧噪も、躊躇いも迷いも、何もかもを雪が隠して行く街の、片隅に立つ一人の女へ向けて。
×
私は何の為に生きているのだろう、五月女真糸(さおとめまいと)は思った。《何処までが私だろうか、何処までが他人なのだろうか》
春の雨が桜を散らす、冷たい午後、浮かれた慌ただしい一日を終えた彼女は一人青山周辺を歩いている。渋谷からの帰路、揺らす傘は透明のビニールで、片手には鞄を持ち、長い髪の毛がコートに掛かり、紺色のスカートからは白い肌が見えて、色白の顔には品の良い黒縁のメガネ在り、整った目鼻立ちに表情は見られない。彼女の視線には青山霊園が目に這入っていて、丘の上全体は桜の薄紅の屋根となって見える。やがて、陸橋を渡ると、花も枝も細かく複雑で、一様では無く、薄紅は黒々とした墓標を柔らかに抱いていた。丘に這入る前は、丘全体がピンク色の甲羅の様に見えたのであるが、其等は弾力があり、伸縮していて、白さが濃く紅が薄い吉野桜は、冷たく在り、何か抑え難い力と共に、雨の中を散っていた。
桜は何の為に散るのだろう、彼女は思った、夥しい程の花びらが、一時の盛りを終えて、アスファルトの上に積もっている、其等は生きているのだろうか、《或いは死んでいるのだろうか》、其等に意味など在るのだろうか、《或いは意味無く咲いて、意味無く散るのだろうか》私達少女は、何の為に生きているのだろう、私も又、意味無く咲く花の一輪なのだろうか。意味とは何だろう、其は今と関係しているのだろうか、其とも、未来と結び付いているのだろうか。《其は必然的でなければならないのだろうか、未来と必然で結び付いていなければ、意味と云えないのだろうか》《此等互いに自縛するもの廻る、咽び泣く儚い虫》
宝石の様な雫を乗せた薄紅に風が叩きつけて来て、華は首から落ちて行く、其の落ちる先の水溜まりには、無数の花びらが在り、其等は既に、誰かの足が踏み潰した後であった。
私の未来、例えば高校を卒業して大学を卒業して、社会に出て、《社会に出る、出る、とは何だろう。学校に入り、会社に入り、社会に出る、では、社会は広いもので、学校は檻の中なのだろうか》《或いは、学校と云う檻から、社会と云う檻へ移動させられるだけなのだろうか》、そして、結婚して、《家庭に入って》、子供を産む。《子供は出て来る》《何処に出て来るのだろう、閉じられたものが体内から閉じられた世界へと移動する事は、出て行く事なのだろうか》ならば其処、《其処とは未来の事だろうか、其とも此の春の雨の事だろうか》、に意味が在るのだろうか、子供を産み、其の子供が子を産む、其の連続を意味と云えるだろうか。《其処には何の味わいもない、少なくとも私には》、此の煩悶は何だろう、私の頭が悪いから、今生きる事に意味を見出せないだけなのだろうか。だとしたら、頭が良いと、此の訳の分からないマトリョーシカに意味を見出せるのだろうか。《だとしたら此の様にデザインした教師は無能極まりない》
ぶら下げた鞄、其の中に重たく詰め込まれた、教科書とノート、無数の記録、湿気を含んだ衣類の重み、其等一つ一つが、彼女の伸び縮みする四肢に疲労を塗り重ねて行く。
世界は不親切だ、彼女は思った、意味在る事をしろ、と云いながら、何が意味在るのかを教えない。《意味の果実を食べたとして、私は歓喜して我を失うのだろうか》たとえ、其等、並べられた未来に意味が在るとして、私は其を受け入れるだろうか。《其の必然の約束は何処だろう》《寧ろ、其等未来は、私に押し付けられている義務に見える、社会が求めるから進学して、社会に出て働き、社会が子供を求めるから産む、其処には私の意志等は無く、本当は意味も無い、かも知れない。そして、其等は意味らしい言葉で讃えられているだけの他人の欲望なのだ》此の桜の様に、美しいから並べられ、時と共に散って行く。ああ、頭の中にノイズが渦巻いている。《どうしてこんな事を考えるのだろう》春だからだろうか。
今朝は珍しく父と喧嘩した、父は衣類に煩く云う方では無いが、私が穿いていたスカートが短い事を冗談混じりに咎めたのだ。其は、別にスカートが短いからどうしろと云う心算は無いけど少し馬鹿みたいに見えないか、と云う様に、私には聞こえた。
「短いからどうしたの」真糸は尋ねた。
「いや、少し短く見えただけだ」父は云った、そして、自分の眼鏡に触れてコーヒーを口にした。
「短いと、何か問題でもあるの」彼女は尋ねた。
「いや、可愛くて、チャーミングだ、少し寒いからどうかと思うけど、美しい足だ。君は公立高校を選んで進学した、衣類は自由だ、君がどんな物を身に付けても問題は無いよ」
「問題ではないけど気に入らないのね」
「僕の意見なんて聞くべきじゃない、其が自由だろう」
「聞くべきじゃなかった、でも、云った、つまり、云うべきじゃなかった」彼女は云った。
「そうだね」父は少々呆れて、其を認めた。
「云うべきじゃないけど、敢えて云った」
「ああ、何となく、でも、云うべきじゃなかったかも知れない」
「でも云った」私はどれぐらい此の問答を続ける心算だったのだろうか。「其は私が聞くべき意見だと父さんが考えたからでしょう。父さんは、私が娘として、耳を傾けるべきだと考えた。如何なる内容でも、娘なら聞くべきである、と考えた、其が些末な問題だとしても。学校が衣類の自由を認めていて、其でも親は子供の意見を聞くべきで、子は親の云う事に耳を傾けるべきだと考えた、違うかしら」
《如何にも〈思考の公務員〉らしい物言いで私達は続ける、こう考えるべきだ、と》《こう考えるべき、と考える事自体が、こう考える事を強制している》
「えらく絡むね。僕が間違っていたよ。君は頭も良いし、自分の意見も持っている、自分が何をするべきか知っている、だから自由を認められている衣類に僕は意見を云うべきでは無かった、申し訳ない」
恥ずかしかった、《刑は執行された》、私は其の様に云うべきでは無かったのだ。《でも、思い付いた事を云ってしまった、何より、父の言葉から連想されるものは、何者かになるべきだ、と云っている様に思えた》《故に、死刑は公然と執り行われるべきだ》でも、父さんは其の様な事を云いたかったのでは無い、唯、朝の会話を楽しみたかっただけなのだ。《でも、本当は父さんも判っている、少なくとも、私は母さんの様に生きるべきでは無いけれど、母さんに似て来ている》《此の気性、此の云い返し方》そして其の様に思い出す事が恥ずかしく、腹が立って仕方がない。
透明なビニール傘に次々と花びらが降りて来た、小鳥が番になって雨と花の間を飛び交い蜜を舐めている、黒い枝が白く濁った空へと伸びて行く様であり、其の先で未だ眠っている蕾は性的絶頂を待っている様なエロスを秘めている。
どうして咲くのか、彼女は思った、何の為に咲き、何の為に散るのか。《何の為に生き、何の為に死ぬのだろう》《何の為に殺し、何の為に食らうのだろう》そして、私は何故こんな事を考えていて、何の為に此処を歩いているのだろう、目的が無いのなら、もう少し在るのではないだろうか。
或る生徒は云った、大学に入学する為に高校へ進んだ、其の三年間で大学へ進学する理由を考える、大学に進学したら四年間で社会に出る理由を考える。《ならば、社会に出たら、何年間で社会に出た理由を見付けるのだろう》或る生徒は云った、いい男を見付ける為に生きている、じゃ駄目かな。《いい男を見付けても、失ったらどうするのだろう》或る生徒は云った、セックスして子供を産む為に生きている。《では、産んで育てた子が去った後に何が残り、其の後何を支えとして何の為に生きるのだろう》私の反射は無限にケチを付けて行く、此が屁理屈で在ってくれたなら、だが、多くは精神論に屈する形で突き返されるだけだ。《社会に出ると理不尽な事が沢山ある、だから理不尽に強制される事に慣れるべきだ》
「どうだろうね」弓丘圜は考えながら云った。「恋とか性とかに明確な理由が必要なのだろうか」圜と真糸は昼休みに音楽室で演奏をする間柄である、圜はオルガンを学んでいて、ピアノも演奏出来る、真糸はギター奏者である、二人は雪が降り頻る空を眺めて話し込んでいた。
「そもそも、僕等は自ら目的を持って生れて来た訳では無い、其を求めたのは両親だ、つまり、凡ての子供は受動的に、無目的に生れて来る。そして、目的を持つと云う呪いで、育てられる」
「呪い」真糸は尋ねた。「祈りでは無く」
「呪いは祈りの一部だ、或る祈りは或る人にとっては呪いとなる、僕が尊敬する先生の言葉だ。つまり、どの様な祈りでも、多様性の内側では一般性は一つとして云えない。目的を持って生きる事は、或る意味、尊い事だ、其が文明を産み文化を作り、ビッグバジェットのエンターテインメントを生んだ、でも、其は何時迄続くのだろう。影響力の在る人間になる、聞こえは良い、でも、どれだけ耳を集める口でも、何時かは物語を終わらせなければならない。巨大化した物語は希薄なメンタリティを幼いまま回転させる、例えば、家族の為に、と云い続ける事で目的と動機が転覆して血縁と云う呪縛だけを守るシステムに成り得る、とかね。其が価値に帰り、懐に入ったとして、其の金で再び耳を集めるのだろうか、墓に入って迄尊敬を集め讃えられないと気が済まないのだろうか、自己保存の完了だけが生産性や価値と云えるだろうか、僕には判らない。僕等は目的に呪われている、と君は感じないかい」
「なら、何の為に生きているの」彼女は尋ねた。
「僕は奏でている時、奏でられている時、何の為に生きているのかを忘れている」圜は云った。「少なくとも、演奏者は、演奏している時、動作以外の事をしない、動作しかしていない、其の為に聴き、考えて、奏でている。動作する事を考えたらミスをするだろう、運動している時運動は必要最低限のものしか見ていない」
何を云っているのか判らない、無目的に生きると云う事はルールを守らない野蛮な人間の考えではないのだろうか、彼女は水溜まりに浮かんだ桜の花びらを踏んで思った。《私達が社会で生きる限り、人は何かの為に生きる者で在る筈だ》《だが、社会は私達を守る為に存在しているのだろうか、寧ろ、社会は私達に無関心である様に見える》
雨と桜と墓は、迷路の如く続いていて、真糸は其処へゆっくりと流れて行く様に入り込んで行った。散る桜の間には若葉が見えて、花は、何者かの結晶の如く澄んでいて同時に脆く在った。
歩く事は快楽だ、歩みには凡てが在り、歩みには誰もが居る、彼女は思った。《奏でる事は欲望だ、一体、其の先に何を求める》《だが、欲望とは結果を作る。優れた演奏が現れて、音楽は市場を生んだ、生まれた市場に、生まれる奏者は立っている》でも、だからと云って奏でる事をやめられない。《だからと云って歩む事も止められない、呼吸する事は止められない》《そして、だからと云って、私は女で在る事を止められない》
彼女が霊園の墓標の間を歩いていると、二人の奇妙な人物が目に入った、一人は裾の長いコートを着た若い女性で、一人は雨合羽を着た男性である。女性の方は、一見普通に見えたのであるが一方の男性の声、身ぶり手振りと話し言葉に、真糸は奇妙な違和感を覚えた。そして、彼女は一瞬、恐怖と不安を覚え、警戒した、次に其の様に身構えた自分を恥じた。
あの声、奇声、発達障害だろうか精神障害だろうか、いや、だから何だと云うのだろう、障害を持つ人が桜を見て悪い訳では無い、彼女は思った。《でも、障害者が如何なる障害を持っているのか、私には判らない》《どうせなら障害の名称もぶら下げたらどうだろう》何て無神経な発想だ。《でも、障害者が如何なる問題を持っているのか私には判らない、そして、理由も無く、殴り掛かって来たり、訳の判らない事を話されたり、変な事を云われるかも知れない》《其が偏見である事を私は知っている。でも、何かあった時、私は誰に助けてもらえば良いのだろう》助けて貰う、自分で何とかすると云う発想が遅れている私はどうかしていると思う。嫌だ、此の様な事を考えるのは嫌だ。《でも、私は身構えて、恐怖して、逃げ出したいと思っている、そう思わせる人物が目の前に居て、其によって私の自由は侵されている》でも、此処に居る事は彼等の自由だ。《だが、私は彼等を排除出来ないか、と考えている》《其を思わせた彼等を憎く感じている》此の理由無き不安は何だろう。《いや、寧ろ、理由は在る、原因は在る、其は目の前に在り、其を、其の様に認識した私が、此処に在る》《だからと云って障害者は障害を辞められない》
ふと見ると、何時の間にか二人の男女は移動していた、見ると、霊園内に在る鳥居に二人は這入って行った。沈黙が雲の様に這い回り、二人が其処から出て来る気配は無かった。真糸は奇妙な好奇心から、其の鳥居へ近付いた。鳥居は古い石造りで深い苔が生えていた、垂れ下がった桜に掛かる霧雨が深かった為、鳥居の中の様子は伺えなかった。
私は馬鹿になっている、彼女は思った。《でも、馬鹿になるとは何だろう、人の知能が急激に退化すると云うのはどの様な事だろう、寧ろ、こう考えるべきだ、私は私の中の〈内なる看守〉に弱くなった》《そう、何者かの為に生きようとする〈思考の公務員〉になった》だが、利他的に生きろと、誰かが囁く、誰かが嘯く、誰かがケチを付ける。
「何の為に生きるのか」八重民紗(はちしげみんさ)は訊き返した。「其は君が何の為に生きているのか、と云う事、其とも、私が何の為に生きているのか、と云う事」彼女は尋ねた。
「判らない」真糸は云った。
二人は晴れた早春の空を眺めながらコーヒーを飲んでいる、休日の午後、都内の品の良いカフェに二人は居た。民紗は長身の少女で、髪は短く、如何にも運動が得意そうな外見をしている、二人は同じクラスの友人である。
「誰かに云われたの」民紗は尋ねた。「御前は何の為に生きているのか、とか何とか」
「いいえ」真糸はやや小さく云った。
「前提となるものが無い中で、いや、此処では寧ろ意図的に命題から前提が省かれているけれど、目的を立てる事は出来ないかな。でも、何か前提が在るなら云える、家族の為とか、誰かの為にとか。でも、其が常に云い得ると思うのは、少し変かな」
「呪い」
「呪い、何の事」民紗は尋ねた。
「目的を持つ事と云う、呪い、で人は育てられている、と弓丘君が云っていた」真糸は云った。
「呪いは祈りの一部だけれどね」民紗は微笑して云った。「まあ、私も心当たりは在る、物事を正しく捉え、論理的に考えようとする事は、人として悪い事ではない。でも、人を一定のモデル、単一の規格で、見たり、測ったり、分析する事は、多様性にとっては問題となる。私の友人が話してくれた事を云おう。一つのモデル、〈理想市民〉と云うものが在ったとしよう、社会にとって理想的な人物で、其は人の願望だ。〈理想市民〉ならこう考えるだろう、と仮説立てて模倣するのに便利な、何者か。世のヒーロー、ヒロイン、と云うのは〈理想市民〉的なアイコンなのだと思う事にしよう。人が学習する多くは真似る事であり、模倣であるから、此のモデルケースは良いアイディアに見える、実際、私達が学ぶ事、学校で教わる事は此に近付く事であり、社会が問いたい人格と云うのは此の〈理想市民〉に如何に近しいか、と云う事を問うだけなのかも知れない。でもね、君と〈理想市民〉が等しくなる事は無い、つまり、同一化されない」
真糸と民紗は同じ歳で、同じ学校に属しているのであるが、真糸には彼女が云った事の殆どが理解出来なかった。
「〈理想市民〉には自由が無い、そして、人は嫌でも自由な意識を有している、何故なら、モデルには意識が無く認識出来る時が無い、モデルにとって自由は正義と責任より劣るから。明文化出来るモデルには条件が在り、其の条件を義務としている所に正当性が在る。逆に意識が在ったら常に正義と責任を自由より尊重出来ないと思う。自由は条件を書き換え得るし、意識は時の当事者だ、其の質に付いて文は常に遅れている。今、と云う今らしさは明文化されない所に在る。だから〈理想市民〉にはなれない、でも、其が見えて知覚出るが故に、人は其に巻き付く、現前化したものは非現前性の波に、すぐさま、追い付かれる。憧れる事は出来る、見下す事も出来る、でも、同一にはならない、人は自由性を所有している、其処に理由は無く、連続的だから、自由なんだ。つまり、理由が在るから選ぶと云う事は強制で、其処に自由性は無い。何の為に生きるのか、と問う事で、其自体が君の自由性を強制的に或る種の思考回路に閉じ込め、内なる監獄を作ってしまう、〈理想市民〉は其の監獄の中の〈内なる看守〉と云う所かな。人は無目的で在る時、理由が無い時、初めて自由になれる。そして、其の自由性は平等では無い、自由は公平でも平等でも無い、また、選ぶ事も出来ない。同一性で君が君を説明する必要に迫られる時、実は、君は不自由になり、強制させられているのさ。其は人を説明する事に取り憑かれているからであり、説明する事で支配したいと云う妄念だ、説明は多様性ではない画一性だ。君は君を説明した時、説明した相手の思想に強制的に当て嵌められている、或いは、そう云う同調圧力に屈する形で〈群Δ周円〉に属している事を示す。そうやって、人の牢獄に繋ぎ止める事が社会性と云うものなのさ」
「云っている事が判らない、私が私を説明した時、どうして私は支配されているの、そして、人は何の為に生きているの」真糸は尋ねた。
「実は、私も此等のコンセプトに納得している訳では無い、此は友達の考えだ。此の考えに従うとこうなる、誰かが君に、君は何の為に生きるのか、と尋ね、君は其の誰かの為に君が何の為に生きるのかを決める、其は君の思考を制限している支配其のものだ。君は質問其のものに縛り付けられている、其はウィルスの様に自問自答を繰り返す、そして、其の問い方では〈現在∧現実〉に対して、人が満足出来る解が得られない事は自明だ。質問をした人物は、もしかしたら知らないかも知れない、でも、強制的に答えた時、君は其を〈結び先の無い首輪〉として空洞に巻き付けるだろう、かくして、君は最初から空洞を抱き続けていた事を思い出し、其の様な者として生きて行く」民紗は虚ろな視線で真糸を見て云った。
彼女には、自分が何の為に生きているのか、判っていたのだろうか、或いは、私と同じ様に、同じ質問に悩んでいたのだろうか。《今の私が、答えを受け入れる準備もないまま、下らない質問をし続けているのと同じ様に、何の為に生きているのか、と尋ねた人も質問を受け入れる準備など無かったのかも知れない》《つまり、私が其の質問に困り、考える事が、質問の目的だったのだ》
彼女の中で、思い出したくもない事が頭を過る、辺りは、冷たく、静かで、シンシンとしていた。
此は〈私=君〉の性格なのだろうか、此が〈私=君〉の本音なのだろうか、真糸は思った。《もしも、〈私=君〉が何の為に生きるのか、と云う事に応えられなかったら、あの女の様に、〈君=私〉は無責任に生きるだろう、目的とは責任であり、責任とは市民の義務だ。〈君=私〉は社会に生かされる囚人の一人に過ぎない》《社会に生かされている、其を思い出して居れば良い》《そして、何の為に、と問われながら社会に生かされている事を思い出し続ける》《〈君=私〉は〈私=母〉の様に生きる事を恥じている》《恥を知れ》
彼女は何時の間にか墓地から出ていた、霊園を区切る十字路に立ち、一方通行の車の流れを見ていた、何処で迂回し循環しているのか良く判らないまま、彼女は桜の迷宮を歩いていた。彼女が歩いていると、前方を歩いていた壮年の男性が、突然、静止して、周囲を見回した。真糸は立ち止まり、其の人物を避けて前進した、すると、向かいから自転車が来て危うく衝突しそうになった。「危ないな」自転車の運転手は大声で、真糸に向かい、怒鳴って、不愉快そうな表情で去って行った。老人は、変わらず呆けて、辺りを見回している。
自分は関係が無いと思っているのだろうか、真糸は老人を見て思った。《邪魔な存在が大手を振って歩いている》いや、でも御老人だ、視野が狭くて歩く事も難しいのだろう。《ならば、外出をしなければ良い》《御陰で私が怪我する所だった》《未来の無い老人の為に、若者が死んで行く》うるさい。《歩きスマホはやめましょう》《人為的な交通渋滞》《〈君=私〉の苛立ちは誰が作ったものだろう》私の苛立ちは誰の所為だろう。
見ると、桜が積もった水溜まりの向こう、水鏡の空には雪が降っていて、水面に映る人物の顔はコラージュの様にバラバラであった。
×
チェルノブイリの花屋はタバコを吸いながら云った。「空っぽの女、と云うのが居た、何でも、自分の内側に在るのは他人の声ばかり、と本人は感じているらしい。空っぽの女にしてみれば、自分を中心にして作られたトラブルこそが自分自身なのだ。自分の為のトラブル、自分の為の事件、自分の為の不幸、かくして、空っぽの女は自分と云うチェルノブイリを作った。そして、世界と云うのは人を人格障害者に変えたいのだ、彼女は世界を其の様にしか認識出来なかった。まあ、厳密な世界を認識する事は其の様な幻想を必要とするのかも知れない」
酷いノイズだ、丸で、人が考える事を邪魔する為だけに在る様な、此の音は何処から来るのだろう。暴力に理由が在るのでは無く、理由無き暴力に言葉が擦り付けられているだけなのではないだろうか、彼女は思った。
「他人の声、他人の視線、他人の価値観、確かに、人が〈群Δ周円〉で在る中では利他性を中心とした考えも必要かも知れない。だからと云って、他人で考え、他人の責任下で生きると云うのは、少々寂しい気がする」
「では、私は何の為に生きているの」
街に振る雪は花の様に散っている。
「どうしてかな。嘗て君の様に尋ねた人は、理由無く〈鏡ガエリ〉した。いや、もしかしたら其すらも他人の為だったのかも知れない、其の人は凡ての理由を他人に預けながらも、一見すると身勝手だった。自分が自らの意志で生きている事が、思い描けなかった。つまり、空っぽの人間と云うのは、其の様に他人から与えられる価値によって生きている。理由も無く生きる事が、退屈に思えるからなのだろうか」
×
だとしても私は身勝手な人間を責めるだろう、好きな時にセックスをして、好きな時に子を産んだ、其は気持ちが良いものかも知れない、でも、其の先と云うものが在る、真糸は思った、男性による性暴力や殺人等、人が身勝手に振舞って繰り返されて来た悲劇は数え上げられない程にある、私は其を嫌悪している。《人には心の牢獄が必要だ、云うならば洗脳としての良心を生まれた時から続けねばならない》《其の様な教育、其の様な躾、其の様な去勢》《男は、或いは女は、道端でマスターベーションを出来るかも知れないが、其を心理的に止める何かが在れば、道は衛生的に保たれる》《かつては都会でも立小便が出来た》《見たくもないものを見ない、其の為の衣類で在り、建物ではないか》ならば、私は何の為にスカートを穿き、足を見せているのだろう。《此の齟齬の声は何だろう》
日が暮れ、雨は殆ど上がっていた、夜の明りに照らされている桜は一際悲しげに散っている。
逃げなきゃ、私は〈考える足〉なのだ。《考える頭から、考える足から逃げなきゃ》就職をするか進学するか、二つに一つと云う選択から逃げなきゃ。《ならば何を選ぶ、或いは、選ばなかったとして、其のどちらか一方へ進んでいた時、私は選んだ事になるのだろうか》殴られてから土下座をするか、土下座をしてから蹴り上げられるか二つに一つと云う選択から逃げなければ。《仕事をする事で婚期が遅れるか、結婚する事で自分の可能性を擦り減らすか》《子育てと云う重労働を強制させられる未来から逃げなければ》《でも、其以外に女と云うものの存在意義を想像出来ない、此の想像力の無さから逃げなければ》私には想像力が無い、どう在っても他人が想像した選択肢、《いや、其は〈群Δ周円〉が強制している量的な戦略だ》、に収まる程度の事しか考える事が出来ない。《右に行っても左に行っても桜が在り、墓標が在る事に変わりは無い》《私が想像を絶する歩みをしても其は想定の地図上から外へ出て行く事は無い》何処まで行っても折り曲げられて、何処まで行っても他人の手の内の足。歩みよりも先に行こうとして、歩みから逃げられない〈考える足〉。《自らの喉に自らを飲み干し、静かなる穴に咲く花を吸い込む》《どちらにしても私は家に帰る、家に帰る、からは逃げ切れない》どちらにしても私は選ぶ、選ぶ行いからは逃げ切れない。《此のまま誰かに連れ去られたい》《此のまま誰かに連れ去られたとして、其は、家を作り、其に帰る事とどの様に違うだろう》でも、私は母の様になる事を拒んでいる。《高校二年生》《出来上がって行く、成熟して行く》《凡て予定通りに》《子供を産む為の安価なシステムとして》《そうで無いと云うなら何の為の命か答えてみるがいい》《誰かの為に》《私は生きている》《飼い慣らす者を飼い慣らす口火》そして、誰も私の為に生きていない。《私が自意識過剰になる為の鏡》私が不自由になる鏡、私と云う実体に縛られた仮面、私と云う偽物。《作られた私》《私と云う名のノイズ》《ノイズとしての桜の花びら》《が散る》何かをしなくてはならない、そして、此の声から逃げなくてはならない、彼女は思った。
真糸は何時の間にか人通りの多いオフィス街へと出ていた、そして、目に這入った地下鉄の入り口に這入り、行き先も考えずに地下鉄に乗った。
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