EOからの手紙17・兎
正しい道を語り続けることによって、
ただひとりの衆生をも救えない場合がある。
間違った道を語り続けることによって、
大勢の衆生が救われる場合がある。
正しい道を守ることは、おのれ一人の道を守ることは出来る。
だが、間違った道を用いると、時には100もの者の助けになる。
おのれが仏であり続けることは、おのれ一人の役には立つ。
だが、それは時には、誰の役にもたたないことにもなる。
導師は鏡のようなものである。
悪人が彼の前に立てば、導師もまた悪人を映す。
鏡そのものは悪人になるわけではないが、そこに映るのは悪人そのものである。
鳥が賢者の前に翼を休めれば、賢者もまた鳥のようになるが、
鳥になったわけではなく、それはただ鳥を映し出す。
このように賢者は、その現れをもってしては、何も推し量ることは出来ない。
現れたものではなく、あらわれ様によってその賢者は測られるものである。
善人しか映し出さないような鏡は、鏡として不良品である。
悪人しか映し出さないような鏡も、鏡として不良品である。
すぐれた鏡は、なんでもそのまま映し出す。
だが、鏡は、なにひとつ変わらず、鏡のままである。
鏡は道である。
悪人がそこにいる時、あなたの役目は悪を善に塗り替えることではない。
悪であれ、善であれ、それを完全にそのままに映すのがあなたの役目である。
そのままに映すためには、何が映っているかにこだわる事なく、
映し出されるものを名付けることもいらない。
鏡のあなたに必要なのは、その表面を死人の膚のように滑らかに、
じっと動かさないことである。
静かな水面に月が映ったからといって、月がそこにあるわけではないように、
真理は映る世界の中にはない。
心という水面がどんなに波が立とうが、月には関係のないことだ。
心という水面がどんなに静寂になっても、それもまた月には関係のないことだ。
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さて、この提唱の『前菜』を蹴飛ばして、私は言う。
いま、さっきまで私は
道は鏡のように静寂であることであると言い、それはまるで静寂な水面のようだと言う。
かと思うと、私は、
水面は月ではないから、水面など荒れても、静寂でも月には関係がないという。
では、真理は、月にあるのか、水面にあるのか?。
では、真理は、鏡そのものにあるのか、そこに映る事実にあるのか?。
真っすぐな、鏡は、鏡として合格だが、
それは導師としては失格である。
鏡の目的は、事実に手をつけないことであるが、
導師の役目は事実に手をつけることである。
たとえば、肥満の者があなたという鏡の前で、
「私は、ちっとも欲望などなく、肥満ではない」と言っていたら、
あなたは自分という鏡を少し歪めて、
相手をもっと肥満しているように見せるトリックを使わねばならない。
そうすれば、その者は欲望という肥満に気がついて道を歩くだろう。
一方、死にそうに衰弱して痩せた者があなたという鏡の前で
「私は別に普通である」と言ったら、
あなたは、もっと彼が痩せているように見えるように、鏡を歪める必要がある。
そうすれば、彼は彼に必要な養分を取るだろう。
真実を真実のままに映すことは、鏡としての完成である。
だが、導師という鏡は『歪むことの出来る鏡』である。
誇張や嘘は、自分の為に使うならば世界を滅ぼすが、
道を求める他人に使われるとき、それはより道に近付く。
最も劣った導師は、善悪を超越した鏡のようなものだ。
彼は事実をそのまま映し出す。
善人と悪人の区別もなく、健康と不健康の区別なく、彼は、ただ反射する。
その在り方は、彼には無上の存在性であり、平安を人々に感じさせる。
誰もが彼を賢者として気付くだろう。
だが、もっとも優れた導師は、曲がった鏡のようである。
彼は事実を時にねじ曲げる。
善悪を再び区別し、
健康と不健康、悪徳と善を共に方便として自在に使いこなす。
彼は善であろうとも悪であろうともしないから、善悪を使う。
劣った導師は善悪を離れている。
優れた導師は善悪を使いこなす。
そして衆生は善悪に支配される。
ある時『最低の人』を説く者が現れた。
いにしえの賢者たちは、こぞって、
「最低と最高を区別するのではすでにそれも迷いだ」と言ったと言う。
その『最低を説く者』は言った。
『世の中の衆生を見るがいい。最低と最高のどちらが尊重されているのか?。
このように最高ばかりが尊重されるから、私は最低を説き、そこに道がある事を示す。
道そのものは、最低でも最高でもなく中道でもない。
だが、傾き過ぎたものは元に戻さねばならない。
ひとつの価値が尊重されるとき、その反対のものが嫌悪される。
その嫌悪される反対のものが現れて、天秤に乗ると、
やがて、人々は、どちらも同じ重さだったと知る。
善にも悪にも優劣がなくなった時、どちらも人は価値をおかず無関心になる。
善悪のどちらかが優れているうちは、人々はどちらかに固執する。
それが、同じものになった時、それはつまらないものになる。
つまらないものには、人は決して留まらない。
留まる場所のない者は、本性にくつろぐ。
だから、私は最低であることを説く。
世の中に最低を目指す者がきっかり半分になったとき、私の役目は終わりである。
しかし、それは半分を越えてはならない。
世の中に最高を目指す者が半分、最低を目指す者が半分になったとき、
起きる可能性は2つである。
ひとつは、最低と最高の間の争いであり、
もうひとつは、
最低と最高が、当たり前となってしまい、その区別の意味がなくなることである。
あたり前のものが常に人に平和をもたらす。
あたり前でないものは、人を騒がせる。
だが、今は最高という言葉が人を騒がせる言葉である。
だから、私は最低の素晴らしさを説き、人類の半分を最低主義とする。
その時、人は、どちらでもなく、最低も最高も離れて、本性に立ち戻る。
だから道の方便とは、衆生次第である。
最低も最高もなく、生死もないのは、法の道理としては正しくても、
衆生第一を目的とする導師の方便としては、完全に間違いである。
人々が、あまりにも最高や、生きることに重きを置く限り、
私は、死に重きを置き続けるだろう。
一方、世の中が、もしも死に重きを置き続けるならば、私は生に重きを置くだろう。
衆生は生死のうち『生』を尊重する。
僧侶は『生死を越えた生』を尊重する。
だからこそ、私は『生死を越えた{死}』を強調せざるを得ないのである。
私は何をも尊重しない。
ただ、私が行うのは『強調』のみである。
だが、私の中には、強調したいものも、尊重するものも何もない。
あなたたちが、何物をも尊重も強調もしなければ、
私は沈黙する。
世界に尊重が現れたので、私はこの世にあらわれた。
だから、尊重と侮辱が、共に滅びるまで、私は侮辱するだろう。
もしも侮辱が世間を支配するならば、世間が侮辱するあらゆるものを私は尊重しよう。
だが、時に尊重が役に立つならば、尊重も使おう。
このように道に一定の規則はない。
だから、道は捕えられないものである。
道の路面は、人が歩くために平坦であるべきだ。
だが、道そのものは、常に獣道のように曲がりくねっている。
賢者の心は平坦だが、
その足跡は、常に予測不可能である。
ただ、ひとつ言えることは、
水はくぼみに向かうだろうということのみである。
導師は、自分に起きたことについて言うよりも、
衆生にそれを『起こすため』の言葉を言うべきである。
生死共に越えるとは、それは賢者に「起きた」事を述べている。
だが、その言葉や境涯の、それそのものの真実や、起きた事を語るよりも、
『起こすための嘘』を語れ。
火事場で、自分の大切な宝石箱を探して火災の中へ飛び込んでいった者を
本当に助けるために必要なのは、宝石箱を一緒に探すことじゃない。
自分の財産にしがみついているその者を助けるたったひとつの方法は
『あの宝石箱は、もう私が外へ持ち出したんだ。だから早くここを出ろ』
と言うことしかない。
本当の事を言い続ける者は、言う本人は無傷だが、他人には災いをもたらす。
だが、他人を助けようとする者は、どんな嘘でも作る。
手段はどうあれ、その者が焼け死ななければ、それでいいのである。
優れた賢者は善悪にもて遊ばれることなく、それを持て遊ぶ
だから、彼は善にも悪にもなることができる。
善悪の超越に固執する者は、結局善にも悪にもなれない者となる。
善悪を越えた者はひとりの悟者として正しく生きる。
だが、善悪に遊ぶ者は、ひとりの導師として生きる。
衆生が善悪の真っ只中にいるというのに、
どうして私ひとりが無傷でいられようか。そんな無傷な悟りでは
旅人に、我身を火に投じて捧げた一匹の兎にも劣るではないか。
導師は、おのれが充分に悟りで肥えたと思ったら、
とっとと、衆生の善悪の牙に引き裂かれなさい。
あなたの役目は、悟りに肥えることじゃない。
飢えた者に、あなたを食わせることだ。
1994 1/30 EO