見出し画像

EOからの手紙9・禅外雑談

禅外雑談

禅を離れて雑談してみたいと思いました。でも、結果的にはそれは禅の内部に戻るでしょう。しかし、何事も、外側からしか全体は観察出来ないと思われます。内部では、どんなに筋が通っていても、それはその世界の内部での視点からの掟ですから。
・・・・・・・・・・
さてーー。いまここに起きていることに、絶えず意識的であること、という禅の「方便」は、あるいは「執着点」「または出発点」は、いずれにしても、次の疑問を残す。

『一体その時、我々の意識はどこまで全一的であろうか?。』
よく観察するがいい。
たとえば、一杯のお茶を口に運ぶ。
さて、あなたは、
自分は、ゆっくりと、そのことに、ひたすら意識的だったと言うのだろうか?。
それは少なくとも、一般の不注意な人間よりは目覚めていたかもしれない。
しかし、もっとよく見るべきだ。その矛盾を。
では、口へお茶を運ぶ動作において、では、、では、、
何を意識できていたか?。
腕の感触、茶碗の重さ、唇と茶碗が接する、飲む・・・・
しかし、それは全体どころか、まったく狭い、限られた知覚にすぎない。

たとえば、ひとりのブッダがお茶を飲む。そこに起きることは次のようなことだ。
さらに2,3人同席している者がいればこうなる。

お茶碗に手がかかる。遠くの音が聞こえる。畳みと足の感触。かすかな空気の流れが顔に触れる。腕を持ち上げる。遠くで電車の音がしている。目前の主人はどうやら胃のぐあいが悪いらしい。その隣の人は、今朝つまらないことがあったらしい。その後ろの客は、オーラが濁っている。どうやらあと数日で風邪をひくらしい。
自分の腕があがる。かすかに茶の香りがする。あっ、小さな虫が私の足元にいる。ダニだ。湯気が私のほほに近付く。茶碗の水面が揺れている。主人が目をこすった。寝不足のようだ。口もとに茶碗のへりがあたる。我家のせんべい座布団と違って、座布団の感触がいいなぁー。びてい骨に体重を感じる。お茶を飲む。音がする。あっ、頭のてっぺんがチリチリする。そのまま飲む。あっ、さっきよりも部屋の気温が上がったな。
床の間のかけじくが見える。ゴクリ・・・少し、にがい。向かい側の家から今、女性が出掛けるハイヒールの足音がする。同席している右の客のは黙っているのが苦手らしい。ほらほら、彼の体の回りに、イライラの濁ったオレンジ色の気が出始めた。
私はひと口飲んで、茶碗をゆっくりと置く。カタリという置いた音。前かがみになった時の自分の背中と衣服の摩擦の感触。さて、この間、私は9回のまばたきをした。左の足の親指を4回動かした。そっと手をひいて、また手を組んだ。私は黙っていた。
私の体に、ひと呼吸の息が通る。少し左の鼻がつまっているなぁ。
あっ、カラスの鳴き声。4回鳴いて、間があって8回。その間、目前の主人は2度親指を動かし、その左の客は1回くしゃみを目立たないように我慢していた。

何もする事も、求めるものも、工夫などもしないために、私はただ存在するので
こうした知覚や観察が、私の中では、ひとくちお茶を飲むという15秒の間に起きる。

さて、疑問だ。
いま、ここにいるとか、意識的に目覚めて、いまのことになりきる、と禅は言うが、
それは、一体、どの範囲、どの知覚、どれなのだ???。
「その全部だ」という言い方は、禅のごまかしにすぎない。
あなたも科学的な思考をもっているのだから、ちょっと観察するといい。考える必要はありません。ただの観察です。
我々の注意力、覚醒、そんなものは、どう拡大しても、限られているのだ。
となると、たとえば禅は我々の5感の感覚を目覚めている対象としているのだろうか?。
だが、私はたくさんのいわゆる気に敏感な人や、肉眼で見えないものを当たり前に毎日見ている人達に会って来た。そして私もややその傾向がある。そうすると一体、現実とはなんなのか?。我々がありのままに対面していると禅が簡単に言う現実、目の前の現実とは、それそのものが、人によってまったく違う。
茶を飲む自分の動作ぐらいに、絶えず、くまなく目覚めているのは難しくない。
その動作の間の自分の呼吸、まばたき、皮膚感覚、他人の観察、音への観察、それらを全部私のように、感じても、なおも、私はたくさんの「現実」を見逃しているのだ。
たとえば、部屋の気圧は微妙に変わっているはずだ。血液の流れ、心臓の脈を私はさきほどの観察では見落としている。それに、あれだけ目覚めていても、まだまだ私の耳が聞き漏らした音は無数にある。
本当は我々は、ちっとも目覚めてなどいないのだ。禅のいう目覚めは錯覚だ。
ちょっいとばかり、動作を3分の1の速度にしたからといって、我々が注意深く、動作と完全に一体になるはずはない。だから、太極拳を10年やっても悟るわけではない。
さて、
私は、そういう動禅をやってきた人に必ずやらせることがある。
喫茶店で、私は言う。
『さて、いつも寺で茶を飲むようにゆっくり、目覚めてやってみなさい』
彼らはゆったりと飲む。次に私は言う
『では、テーブルから口にコップが到着するまで2分の時間をかけなさい。
さて、これは超スローモーションだよ。』
私は私も実際にその者につきあって、2分かけて一口の水を飲む。
こう言えば、もうわかるであろう。
禅がいう注意、瞬間に目覚めている、、そんなものは、真っ黒の嘘だ。
2分の時間をかけて、一杯のお茶を飲めば、あなたの意識は、あっちこっちに飛び回る。
しかも、その注意力も途切れ途切れなのだ。やってみればわかる。
いま、そこで、師家も弟子も、そこで、今、やってみれば分かることだ。
2分の間、完全に自分がお茶を飲むことに目覚めていられるかな??。
普通の作法的な修行は、ある程度のスローモーションだから、その間自分は注意して、今のことになりきっていると思い込んでいるだけだ。
しかし極度なスローにしたら、我々の注意力など猿のようなものだ。なまじに、20秒ほどの時間で一口お茶をのむから、その間、しんみりと、味わって、落ち着いているかのように錯覚する。しかし2分の時間をかけて、一口のお茶を飲めば、あなたは、自分の注意力の曖昧さに気が付く。そして、いったい目覚めているなどというのは、どこからどこまでのことを言うのか。いまここのこと、といったって、それは何をいまここの事と言うつもりだろうか?。それは個人の視覚や注意の濃密度によって違うのだ。

茶碗を指さして、方丈曰く「EOよ。これはなんだ?。」
EO『チリーン』
方丈「そうではない、これだ、これはなんだ」
EO『カサカサ』
方丈「これだと言うのに」
EO『ガタン』

その時、EOは目を開けていたのだが、意識を視覚から完全に切断していたのだった。
つまり、彼は耳に全神経を向けていて、目になにも見えていなかった。あき盲だった。

チリーンは遠くのふうりん。カサカサはゴキブリの歩く音。ガタンは、方丈氏がEOを殴ろうとして乗り出して、テーブルにけつまづいた音である。

「これなにものぞ」の質問といったって、はたして質問者と問われる者が、
本当に同じ現実の中にそもそもまずいるのだろうか?

私は、こうした少林窟のやりかたに一言だけ言おう。
むろんそういう無理な注意など続くわけがなく、やっていれば、修行者は『工夫のない工夫』にいずれ至る策略の上で、老師は指導しているのは理解できる。
しかし、それでも、ひとこと言っておきたい。

EO曰く『あんた。・・生まれつきの盲目の弟子を持ったことはあるか???。
盲目の弟子を悟らせてみろ。そんときは、あんたが彼らの世界について学ぶ番だ。』

ただの一呼吸、皮膚感覚、耳、そうしたものは、あなたより何倍も彼らは目覚めている。
そして、彼らは雑念など、ほとんどない。
老師たちよ。私はあなたたちに聞くが、雑念は何によって作られるのかね???。
それは視覚情報だ。やれあの人は身なりがどうだ、ひげがどうだ、あたまの髪形がどうだ、着ているものがどうだ、などと。そして人間の心の8割は目から入った情報だ。
だから、あなたたちは、全盲の人を悟らせてみなさい。
言っておくが、あなたたちの方が、よほど悟っていないと痛感するだろう。

いま、ここ。この瞬間。なりきる。ただいま。これらの禅用語は結局全部矛盾だらけだ。
確定もできない空間の範囲や現実というものに漠然と言葉を押し付けている。
では、『ほんとうの今、ここ』とはなんなのか?。
それは、ただ
その者の知覚している世界が現実なのであり、現実などという実体があるわけではない。
現実とは生物の知覚の中にしかない。
私はカラスに自分を指さして『これ、なにものぞ』と問いかけた。
するとカラスは言った『光』
どうやら、カラスの目には、人間は我々の目に見えるようにではなく、銀色の光に見えるらしい。
ここまで違わなくても、二人の人間の間には、そもそも現実感覚にズレがある。
しかし、ほんとうの『これ』とは、
対象物ではない。まずそれは
それを意識している自分が「ここ」にいるということだ。
意識している対象や感覚とまったく寸分もずれる事なく、
自己の中心の不動の意識の自覚が絶えないことだ。
次に、その不動の意識の中心をよく見ようとすると、よく感じ取ろうとすると、
そこは、実は、なにもない。自覚すらもない
自己もなく、意識とすら言えない。
しかし、寝ているのではなく、在り、在りて、在りて、在り続けている。
これは、どこで何をしていようが、何を見ているかに関係無く、そこにいつでも在る。
だが、それは自分という中心ではない。名付けられない無名の中心であり、
ただただ在るものであり、自覚や確認の必要もなく、修行の必要もない。
意図して注意や自覚することによってではなく、
あらゆる注意を放棄して、ゆったりと心身共にくつろぐ深みにおいて、実現されるものだ。それは動作にも座禅にも区別がない。
昼間であれ、夜中に寝ていても、それは在り続ける。それは途切れない。
しかし、それは修行の成果ではなく、我々のもともとの本性だ。
その絶えざる今の体験の連続に対して、いかなる力みもなく到達できる手法は、
死人禅以外になく、曹洞宗の座禅にはまだ無理がある。
臨済宗ともなると、もはや論外だ。
丹田だの、本心は楽しくもないのに、バカ笑いしてたり、菜食でないと気が上に上がるなどとオオボケを言っているようじゃ、彼らは論外だ。
そんなに丹田修行したけりゃ、やや肉食を増やして、呼吸法を死ぬほどやって、空手のように角材で腹でも殴っていればいい。私は昔そうしてた。木づちで下腹を殴っていた。
さて、菜食とは、もともと気を上昇させるためなのだ。それを肉を食うと上がるなどといいかげんな事を言うものだ。そんなことインド人に言ったら、日本人は馬鹿かと思われる。
インドのほとんどの修行が菜食主義なのは動物が殺傷されるときの恐怖の気が肉に記録されているために、それが体内に入るのを嫌うのだ。
しかし、ブッダたちは決して菜食とは限らない。彼らは食べたものには影響されない。食べたものの気を逆に体内で進化させるからだ。
中には、毒薬を平気で飲んで、消化させないヨガのおっさんとかもいるらしいが、
別にそういう芸には、なんらの意義があるわけでもない。
とにかく、肉食では下に下降し、菜食では気が上に上がるのである。
肉食が多い民族は、たいていスケベだ。生殖器のエネルギーがやたらと発達する。ペニスの勃起力が増す。そして怒りっぽくなり、体質も動物的になり、体臭も臭い。
これらは肉によって、下の中枢(チャクラ)が活性化するからだ。
ただし、一般的な社会での行動力や集中力のためには、この下の振動は欠かせない。
だから肉体的にタフでいなければならない人達は、適度な肉食がいい。
しかし瞑想者のように、じっとあるがままに存在するには、菜食がいい。
さらには、一日の食事は、1.5食あるいは一回がよい。
30年の間、一週間に一度、一杯のご飯しか食べない、おばぁーちゃんも、昔いた。
あとは、たまにコーヒー飲んでいるらしい。山奥だったので、どうも冗談ぬきで、そのおばぁーちゃんは、山の気を仙人みたいに吸い込んで生きているようである。
しかし、こういうことやり出すと、キリがない。
苦行オリンピックやっているわけじゃあるまいし。ただし、禅もまた、
一度は、馬鹿みたいな滝浴びもやり、馬鹿みたいな断食や、馬鹿みたいな苦行をやるのも決して悪くはない。
****************************
しかし、結局すべては、インドでも、中国でも、意識の座は脳天に帰着する。
日本だけにこの手法がない。白隠がへんてこな瞑想法をやったらしいが、
それも一部、脳天に妙薬卵をイメージする子供だましのような手法があるが、あれじゃおまけ程度にすぎない。
インドのタントラや、クンダリーニヨガ、そして死人禅では、
修行者の迷いや分別がパーになるまで脳天にいさせる。
うすら馬鹿の大量生産である。そして、その透明な冷静な馬鹿の底に、底辺に
私の言う仏性がある。それは、のどかで、静かで、求めるものもなく、
ただ在ることの美しさだ。見ることですらない。在ることだ。
とことん、脳天に留意して馬鹿になり、
次に死人のように、さまよい、漂うように立ち、座り、歩く。
人を捨ててこそ人がある。
そして生を離れてこそ、
本当に、生の中に彼らは戻って来る。
だから、一度は、生の外側へ、
すなわち心も世界もなにもかもが、枯木どころか枯木もないまでに死んでしまうことだ。
僧侶が伝統的な座禅の中に、死人禅の心得を混ぜることで、それは高速で進行する。
脳天のつむじの独特の感覚が一日中絶えざるものになるには時間はかかるが、
一日に通算で2時間ほど留意するに至るには、現在のところ、座禅や瞑想の未経験者では数ヶ月かかっている。
また座禅などを前にしていた者たちは、2週間から3週間でその頭頂のムズムズしたり、電気的にピリピリしたり、チクチクしたり、鈍痛のような感覚、そこだけ筋肉が緊張したような感覚、あるいは針でチクリと刺したような感覚、あるいはドクンドクンと脈打つような感覚をつかんでいる。
ある座禅者は、脳が浮かんでしまい、視線は下に落ちて、額のあたりから上下が分離したような感覚から始まったようであるが、それはまったく正常なプロセスである。
場合によっては、留意点は、頭の真上15センチのあたりの空間になってしまうこともある。
しかし意識は無理に、押し上げてはならないと、私は行法にも注意した。
この頭頂点の中枢は無理を一番嫌うからである。だから20分ばかり茶碗を乗せた方が
茶碗をどけたときの余韻の中に、無理のない留意が起きるはずである。

1993  11/26  EO

いいなと思ったら応援しよう!