「考える」から「分かる」を経て、コンテンツが生み出されるというお話(第1回)
どうも、ゆうせいです。
ジラ谷(@jiratani_world)さんの「アウトプットnote」を読んで、私の視点から書き記す「ちょい足し考察note」なるものをこれから書いていくのですが…。
どういう形で書いていこうかと考えた時、「ちょい足しどころじゃねえわ…」ってなくらいに大きく表現が変わりそうなので、一旦そこのところを共有しておきます。
私は音楽が好きで自分で曲を作ったりもしますが、20代の頃に本気というほどでもない気持ちでフリーターをしながら音楽活動をし、それが解散して終わった後も曲作りだけはしておりました。
30代の頃に作った曲の中に、「無性に食器棚が欲しくなり、衝動的に買いに行く」という歌詞の曲を作りました(何その曲?笑)。
ただ、どストレートにそういった歌詞を書いたのではなく、「無性に好きな女性に会いたくなり、衝動的に会いに行く」と表現を変えて歌詞を書いたんですね。
私がこれから書いていく「ちょい足し考察note」は、そんな感じで元ネタであるジラ谷さんのアウトプットnoteの内容から、具体例を用いて表現を変えながらやっていこうと思います。
今回のテーマは、「考える」から「分かる」を経てコンテンツが生み出される、というお話。
それでは、本編をどうぞ。
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私は今、よく魚が釣れるという池で一本の釣り竿を垂らしている。
実は、釣りをするのは初めてだ。
だから要領が全く分からない。
ただ、次のように考えると初めての魚釣りでも何かが釣れそうな気がする。
「この釣り竿は私の心の中にある好奇心。魚は、私の好奇心と相性が良さそうなもの。つまり興味のあることや知りたいこと。他には自分の考え方に共感できそうなこと、相反するものでもいい」
ほら、何か釣れそうな気がしてくるじゃないか。
私は「この世界」の中に好奇心という釣り竿を垂らし、世界の中を自由に泳いでいる魚という情報が喰らい付くのを待っている。
釣り竿を垂らしたのは私だから、私の方から魚を捕りに行っている、とも言える。
私の好奇心に見合った情報は、果たして釣り上げられるのだろうか。
好奇心を高めるために、私は釣り針に餌を括り世界に散らばる情報を貪り見る。
数時間後、釣り竿が揺れた。魚が喰い付いたのだ。
普通の釣りなら、魚が逃げないように急いで釣り針のリールを巻かなければならない。
しかしこの釣りは、私の好奇心と外からの情報の相性で釣るか逃がすかを決められる。
ここで、「考える」という行程に入る。
そして、自分の内にある好奇心と外からの刺激がうまいことマッチングした時、「考える」を経て魚を釣り上げ、「分かる」となって水槽に保管される。
好奇心と外部刺激の相性が合えば、自分からのめり込むように「考える」ことができる。このような、状態の良い「考える」を経るからこそ、「分かる」へスムーズに移行して脳内に知識としてストックされるのだ。
逆に、好奇心と外部刺激の相性がそこまで良くない、または悪ければ、「考える」ことはできてもその状態が良くないので、「分かる」には至らず魚を逃がすことになる。つまり知識として脳内に保管されない。
さて、スムーズに魚を釣り上げた私は、見事に自分の好奇心と外の情報がうまくマッチングして、「考える」から「分かる」に至ることができた。
だが、ここで終わってはいけない。
「分かる」に至った知識は、実際に使わなければ意味がないのだ。
頭で理解して実際に体験しないのは、もう知らないと同義なのだ。
普通の釣りをするのに、釣り竿や餌が必要だと分かっていても、実際に釣りに行けば他にもまだまだ必要な物があると気づくはず。
実際にやってみないと、分からないことは山ほどあるのだ。
「考える」から「分かる」に至り、「実践する」ことで知識を実際に使ってみる=自分の腕で上手に調理する。
そして、魚料理として食べる=コンテンツを作って消費してもらう。
ここまでが「考える」ことで起こるワンセットだと捉えると良いだろう。
さあ、釣った魚を持ち帰って、今日は魚でも食べるかな。
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本編を書いていて、最初に書いたけど「これはちょい足し、ではないよね?」やら「考察どこいった?」と何度思ったことだろうか。笑
ちゃんと「ちょい足し」や「考察」になってるかが全く分からなくて不安ですが、今回はこの辺で終わりたいと思います。
まあ、第1回ということでご容赦下さいませ。笑
それでは、ゆうせいでした。