「ええど、やれぃ」しか言わなかった父。
2024年8月15日、父:田辺俊朗(享年88歳)は逝った。私にとっては、18年ぶりとなるアチーブメントの特別講座を受講するため、東京ビッグサイトにあるアチーブメント社のセミナー会場にいた。この日から3日間続くこの講座を受けることを、私がどれだけ願い、心待ちにしていたか。冒頭の青木さんの登場から感極まり、なぜか、涙が出てしまっていた。その後、午前11時頃、母からショートメールが届いた。朝方、父が旅立った、と書いてあった。
すでに10年以上、施設に入っており、ここ2年は要介護区分も上がり、本年4月には、いつお迎えがきてもいいよう、心の準備をしといてください、と施設から通告されていた。それもあって、私の広島出張があった6月21日、父のいる病室に立ち寄り、お別れは済ませてあった。なのにもかかわらず、セミナー会場で、涙が止まらなくなった。ともに受講する、同じテーブルの受講生からは、父の元に駆けつけることをすすめられた。私の涙の量が多かったからだろう。だが、父のことは母に託し、受講を続けた。父なら、そうしろと言うに決まっている。私もこの3日間の目的を果たしたかった。本当に、生涯、忘れられない3日間となった。
存命中は、私や弟と喧嘩ばかりしていた父。直近10年以上も施設に入ることを余儀なくされるほど、酒に狂い、飲酒運転も平気でしていた、アル中のイカレたバカ野郎だ。認知症が進行し、自宅内で酔っ払い、しょっちゅう、そこら中で小便をしていた。それを掃除する母。目に余る状態をみかねた子どもらが協調し、施設に預けたのが10年前。施設では「酒を飲ませぇ。わしゃぁ、帰るど」と言って暴れるため、医師が易怒性(いどせい)の薬を投与することにも同意した。そうでもしないとヘルパーさんたちに危害が及ぶからだ。医師からは、この薬を投与している限り、3年もたない、と言われた。ところが身長180cmを超える戦中・戦後を生き抜いてきた昭和初期の男、頭がイカレても、内臓は健康そのもの。結局、10年、本人は望まない施設での余生となった。そんな父と、どう温和に接することができるか?酒を飲ませれば機嫌が良いが、飲ませないと騒ぎ始める。私の人生は、このどうしようもない男に対する反面教師の歴史でもある。油断をすると、あっという間に似てくる自分がいる。私もアルコールは好きだが、常に適量で留めているのは、ある意味、父のお陰だ。父は高度経済成長期に兄と一緒に家具メーカーを起業した実業家でもあった。彼の営業力はすさまじく、交渉相手の懐に入り込み、自分を売り込み、宴席とゴルフでトドメを刺す。子どもの頃、父の会社に行くと多くの社員から、この会社は父の稼いでくる数字で成り立っている、と言われた。経営者の息子に対するヨイショもあるだろうが、他人からの評価に接し、羨望の眼差しで父をみていた自分もいた。その父が廃業したあたりから落ちぶれ、酒に溺れ、自分を見失っていく姿は、見るのもつらく、ここ20年、実家はアル中と認知症を併発した父との暗闘の歴史だった。その終止符が打たれたのだから、悲しむ必要も無いこと。父も生前、悲しむなと言っていた。だが、涙が止まらない。なぜだろうか、と考えた。
私が子どもの頃、1970年代~80年代前半、婚礼家具がよく売れ、私の家庭もそれなりに豊かだったと思う。子どもの教育におカネを出し惜しみする親の姿は無かった。だが、父には一家言あった。私が小学生低学年の頃、珍しく自宅にいる父が、台所で独り、気持ちよさそうに酔っていた。私はドリンクを取りに冷蔵庫を目指し、父に絡まれないよう、粛々と用件を済まそうとしていた。だが、父は私に「おみゃぁ(備後弁で「お前」)、そこに立て」と私に絡む。嫌々だが、嫌がると長くなり、母に気を遣わせるので、素直に従った。父は「おみゃぁ、おカネを稼ぐ方法を知っとるか?」と私に質問を投げた。小学校2、3年頃の私がそんなことを知るハズもなく、「知らん」と回答した。そして、父は「おカネっちゅうもんは、ええか、人の役に立って、その結果、もらえるんど。それを憶えておけ」と言った。そのとき、私は、この言葉に驚いたことを憶えている。弁が立つ父、いかにも強引に商談をまとめてきそうな雰囲気を持つ父が発する言葉にしては、あまりに意外な印象だった。また、あるとき、同じようなシチュエーションでまた父に捕まった。今度は「おみゃぁ、”一芸を極めれば万芸に通ずる”という言葉を知っとるか?」と聞いてきた。私は「知らん」と回答した。父は「わしゃぁの(私は)、おみゃぁに本当に向いとる競技はゴルフじゃと思うとる。じゃがの、ゴルフは大人になってからでもできる。今は競泳を極めにゃあ、いけんど。そりゃあ、万芸に通じるけぇの。」と言った。そして、この”一芸を極めれば万芸に通ずる”という言葉を5回復唱させられた。そしてあるときは「人の価値は、社会の中で、どれだけ役に立ったかで決まる。社会の役に立てるようになって初めて、人は大人になる」とも言っていた。
このように父は、折に触れて、酔っ払いがクダをまくようではあるが、私の脳に爪痕を残した。考えてみれば、私が現在やっていることは、実業(起業)を通して、社会構造を変えることだ。そしてこれまで、常に、どの道でも、必ずその与えられた責務を極めようと努めてきたことだ。あきらめずに努力すれば、成功体験が積み上がり、自分には「必ずできる」という自信が形成される。1度経験したことは、ある程度の道筋がみえるようになるので、達成までの道のりをショートカットできることが増えてくる。
さらに自信が積み増しされてくれば「私にできないことは、誰にもできない」という、根拠のない自信が形成されてくる。前に述べた「脳を騙す」という所作だ。自分が人類最後の砦だと思えば、責任感も生まれる。なかなか諦められず、粘り強さが生まれる。もっと良いモノを、もっとお役に立たねば。それが大人というもの、と考える自分が居る。
なんと、私は、父の言った通りの人物になっている。
晩年、ひどい人生を過ごした父。ヘルパーさんや母に、どれだけ迷惑をかけたか。こんな言葉でも手ぬるいくらいだ。
私が父とのお別れのため、兵庫県赤穂市の病院に行った6月21日(金)10:30、父は何も言えない状態であった。身体は瘦せこけて縮み、目も空いていない、点滴で生かされている状態、呼吸をするのも精一杯にみえた。
ずいぶん前から、母が行っても誰であるか?の識別ができなくなっていることは知っていた。私は、もう、いつお迎えが来ても良いように、これまでのお礼を父に伝えた。この時期、起業以来、3回目のキャッシュフローの谷を迎えていた。翌月はどうなるかわからない身。テンションは高くなかった、と自分でも思う。
そのとき、意識があるか、無いか、わからない父が、何度も私に向かって目を開こうとした。瞳孔がはっきり動いていた。私の脳裏に「おみゃあ、なにしょーるんならぁ、しょげた顔しとっちゃあいけんど。ええか、社会の役に立つよう、もっともっと、がんばらんにゃあいけんど」と父が言った気がした。私にそんな気がしただけで、父が声に出して言った訳ではない。だが、はっきりとメッセージが私の脳に下りてきた。「力を惜しむな。わしの息子だ、お前に不可能はない、できる」そういうメッセージと受け取った。
その後、弟の運転するクルマでJR播州赤穂駅まで送ってもらい、千葉への帰途に就いた。乗車した車両の乗客はまだ、私一人。人目が無いからか、涙が溢れて止まらなくなった。なにかにつけて私の進路を相談したときは、「ええど、やれぃ」としか言わなかった父。母に言わせれば、父は究極の自己中心主義者。興味がないから、そう言っていたのではないか、と評していた。私も、そうかも知れないと思う。だが父の、否定することを選択しない姿が、現在の私を創り上げている。私が自らに限界(制限的パラダイム)を定めない人物になれたからだ。
人の真の価値は、死後に評価される、といわれる。人の撒いた種が実社会で芽吹くまでに時間がかかるからだ。父の真価は、私を生み、育てたことだ。上述した、会社の危機(キャッシュフローの谷)は、この後、あっという間に解決し、さらに事業を前進させられる身分となった。私も吹っ切れた。父がついている、もう大丈夫だ、と思える。父の真価は私が証明する。いろいろあったが、父は、私が成就達成することを、心底、喜んでくれると思う。
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