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東大かオリンピックか。父と師の間で行われた協議。どっちつかずの未達成コンプレックスが私の原動力。

東大入学かオリンピック出場か。つまり、学業をとるか、スポーツ(競泳)選手としての人生をとるか。究極の選択ともいえる。これが、中学生だった私の進路を決めるために、父と師の間で協議されたことらしい。誤解の無いよう断っておくが、55歳になって、いまさら、幼少期の私の頭脳が明晰だった、スポーツの素質があった、などということを自慢したいのでは無い。後にビジネスで大成するであろう私が、私を私たらしめたものは何か?を検証するために、記憶の限りを書き溜めておくことが目的である。重要なのは過去よりも未来。未来を創り出するのは今。今がすべて、だが、未来をより良くするために過去を整理しておくことも大事だと、私は考えている。これまでの他者からの施しに感謝し、それを糧に未来へすすむ。これが私の自己動機付け法である。では、今回述べる恩人は誰か。それは、上述の「師」である、宇野和孝さん。父の同級生なので昭和11年(1936)生まれ、府中市高木町で縫製工場を経営されていた方だ。

宇野さんは、府中という地方都市にしては、完全に異質な存在だった。こじんまりと、その土地で何をやるにしろ、生涯を完結できそうな町にあって、完全にグローバル志向だった。「私にとってのミス・エルザとミセス・ゾフィー」の投稿で述べた、高尾君のお母さんもかなり外向き、向上志向であったが、宇野さんはそれに輪をかけた印象である。一言でいえば「東大志向」、東大がすべて、のような論調だった。国家を動かしている高級官僚(霞が関官僚や外交官)の多くは東大卒であり、東大を出て、国を動かせ、という信念の持ち主であった。宇野さん本人も、東大を目指されたが断念し、早稲田大学の社学(二部)を卒業されていたと思う。早くにお父さまを亡くされ、働きながら大学に通う必要があったからと聞いた。その無念さからか、府中から東大生を産み出すことに関心があったようだ。その教えは、息子(まさひろ君(私の2学年上))にも浸透し、東大とはならなかったが、早稲田大学理工学部へ送り出された。まさひろ君は、広島市内の高校(広島学院)に越境入学していたと思う。府中市内の中学・高校から一足飛びに、東大は難しいのが現実だった。
よって、勝負は中学選び、高校選びから始まっている、これは現在も同じであるが、日本が高度経済成長のど真ん中にあり、府中にも多くの雇用があった時代においては、先見性があったといえる。そんな宇野さんは英語を教える私塾を開催されており、私は父石町から高木町の宇野さんの私塾まで週2回、通うこととなったのは、中2の頃である。

宇野さんの私塾で教わったことは数えきれないほどあり、それだけで1冊の本に出来そうなので割愛するが、要約すると3つある。

1つ目は「記憶よりも理解を心掛ける」ということである。私が育った時代は、記憶力重視の教育が中心。私は試験で高得点を取るには、単純に「覚えれば良い」と考えていたが、宇野さんは「理解すること」を私に教え込み、設問の問いが変化しても、対応できる考え方を植え付けた。

2つ目は「グローバルに視野を広げる」ということである。東大志向という宇野さんの一丁目一番地は、日本人が、世界で活躍する時代を生きる、という視座に基づいている。私塾で英語教育に尽力されていたのもそのためだ。会社を経営されながらも、ずっと英語を勉強され、ときどきは海外に行かれ、ご自分の英語力を試されていた、と思う。そういう自分の親世代の方が年齢に関係なく、勉強されている姿に触れたことが、私が現在、当時の宇野さんくらいの年齢になっているが、学ぶことを続けている原因のひとつだといえる。接待とゴルフで営業数字を稼ぐことで経営していた父と、宇野さんは、同級生・親友でありながら、私には対照的に写っていた。

3つ目は、実際に施された教育である。まず、テキストを「Progress in English」という、広島学院(広島市)の教科書を使っていたことである。
広島学院といえば、広島県下No.1の進学校。父石で育ち、三中生だった私にとって、一中・二中でさえ、雲の上なのに、それをはるかに超越して、広島市内にある超進学校の教科書を用いていたことは、どれだけ私に自信を植え付けたことか。使用していた教科書が広島学院のものであることを知ったのは、高校受験の直前くらいだったと思う。京都洛南高校受験の際も、ビビらずにやれたのも、この教育のお陰であったことは言うまでもない。それにとどまらず、英語は私の得意教科になり、後に同志社大学経済学部入学にもつながっていく、キーとなる教育であった。さらに、宇野塾へ行く日は「天声人語」を筆記(丸写し)して提出しなければならず、これも、私の国語力の向上に大きな影響があった。こうして、noteを書いていること、また、日常的にさまざまな申請書や特許出願書類の原文を書くことが多いが、文章がすらすら書けるのは、この、天声人語を筆記していた2年間のおかげである。
こうして、大学受験にもつながる「英語」「国語」の基礎を叩き込まれた。あと1教科:社会だけやれば、私立大学文系ならたやすいものである。
この時代(80年代)の処世術の大半を、宇野さんの教育から施されたのである。こうして、私は努力もしたが、方向性を示してもらえていたので、スイスイと人生を泳いでこれたと思う。この恩の多くは宇野さんにある。

そんな宇野さんと父が、私の教育方針について協議した、と母から聞いた。宇野さんが私に東大を目指させろ、と父に進言されたらしい。だが、父は自分が野球選手として苦い経験をしていたことで、私をスポーツ選手として、どうしても大成させたかったようだ。弱気で、大海を知らない私には、どちらのゴールも到底、達成できるような気がしていなかった。なぜ、そんな協議があったのか?私には多分、地頭の良さ、というより、「超」がつくほどの素直さ、があったのではないか。とにかく、言われたことは一生懸命やる。斜に構えたり、本論と関係ないことでへそを曲げない(いつも”こと”に向かう)、という性質である。言い方を変えれば、バカをおだてりゃぁ木に登る、である。木に登りそうに見えた、と私は解釈している。それでいい。結局、父の意見が尊重され、私は競泳を中心に進学を考える、というところに落ち着いたようだ。よって、京都洛南高校がみつかり、そこに進んでいくこととなった。だが、振り返ると、競泳の仲間でオリンピックに行ったが、必ずしも、それで人生が安泰になった者などいない。みな、多少は、オリンピック選手ということで得をすることもあると思うが、仕事を持っている。フィジカルで大半の勝負が決まる競泳と違い、仕事はコツコツとした日々の努力で挽回できることが多い。100mを何秒で泳ぐか、という身体を限界まで酷使する選択よりも、生きるためには、知恵を使うことが重要であると思う。私が大人として生きてきた90年代~現在までは、そういう時代だ。知識社会、情報社会(第三の波)、そしてAIやスマホを使いこなさなければならない社会(第四の波)。そして、グローバル経済の中で個人の発信力が求められ、既得権益優位の社会に対しては、言論による突破力が求められる時代。この時代を生き抜くには、語学力の重要性がことさらである。その点、宇野さんに先見性がある。いくらなんでも、父の方針に対しては、強くは言えなかっただろうが、宇野さんの意見が尊重されていたら、私の人生はどうなっただろうか。人生は片道切符なので、”たられば”は無いが、もう一方の人生を選択できなかったことに悔いは残る。55歳になったが、36歳でビジネス・ブレークスルー大学院に入学し、未だに陸上養殖や社会課題解決のために、高校物理などを勉強し直している日々。してることを観ると、私は本質的に勉強が好きなようだ。かといって、競泳を選択させた父を恨むものでは無い。競泳が私に多くのものをもたらしてくれたことは、既に述べた。要は、どっちのゴールも得られなかったため、自分が今でもハングリーに留まれていること。ここに感謝して前に進むのみである。

つい、数日前、姉が宇野さんの娘(靖子さん)から喪中の手紙をもらった、と知らせてくれた。宇野さんの奥さまが、亡くなられたとのことであった。長い闘病生活をされていることは知っていた。宇野さんの奥さんは、とてもお美しい方だった。父石から通う私にいつも気遣いをくださっていた。宇野塾が終る頃、いつもコーヒーとお菓子を出してくださっていた。いつも腹がへっていた私はとても嬉しく、美味しくいただいた。府中では浮くくらい、洒落た、美男美女の宇野ご夫妻。ここに感謝の意を込めて、お世話になった記録を書き留めておく。





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