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お釈迦様のファンとして

皆様明けましておめでとうございます!
今年初めての投稿は、12月4日に仏教伝道協会さんの「週刊法話ステーション」にてお話させていただいたお話になります。

「週刊法話ステーション」では、様々な宗派のお坊さんが週替わりで毎月異なるテーマに沿ったお話を配信しています🙏

今回私がお話しさせていただいたテーマは「推し」
最近では「推し活」をするための「推し休暇」を導入する企業もあるとか😳
働き方にまで影響を与える推しの魅力とは?
そして、推しと仏教との共通点についてお話しさせていただきました✨

推し活とは

推し活とは、自分の好きな人物やキャラクター(推し)を応援する活動の総称のことを言い、アイドルやスポーツ選手、二次創作物のキャラクターなど、応援をする対象はさまざまで、多岐に渡ります。

そして、その推し活には、次のような活動方法があります。

  • 推しのライブやイベントに参加する

  • 推しのグッズを購入する

  • 推しの良さを周囲に伝える

  • 推しのことを考えたり、推しに対して感謝をしたりする

などなど、推し活の活動方法もさまざまなものがあります。

推し活をする事によって、人生を豊かにしてくれる楽しみや、心身の癒やしにつながり、また、同じ趣味を持つ友達が増えるきっかけにもなります。

現在では、この推し活は、若者だけでなくシニア世代にも広がりを見せており、日本国民の五人に一人は「推し活」を楽しんでいる、というデータもあるくらい、推しという言葉や、推し活が当たり前になっているそうです。

推し活と仏教の共通点

さて、実は私には推しはいませんし、推し活というものを行ったことがありません。特定のアイドルやアニメなどの二次創作の登場人物に対して、いわゆる「推したい」といった感情を持ったことがなく、「推し」や「推し活」という言葉も、今回お話しさせていただく為に改めて調べてみると、さまざまな言葉があって、仏教にも共通する言葉や推し活の手段がありました。

それは推し活をする中で自分の推しのイメージカラーの服を着る、「推し色コーデ」というものです。

「推し色コーデ」は自分の推しと同じ色の服や、推しが身に着けているものを着用する事によって、推しとの一体感やファン同士の共感を生む効果があるそうです。そしてこれは私たち僧侶が行っていることと共通します。私たちが身に付けているお袈裟や衣はお釈迦様や歴代のお祖師様も同じような服装を身に纏っていたとされています。

そして、私たち現代を生きるお坊さんたちも、もちろん宗派によって違いはあるものの、皆同じくお袈裟と衣を身につける事によって、宗派を超えて仏教徒であるという価値観を共有しています。

また、推し活業界の中で用いられる言葉で、「トップオタク」という言葉があります、これは推し活をする人々の中で、特に代表的なオタクを指す言葉であり、仏教的な言葉に言い換えれば特に信仰心が厚く、熱心な仏教信者といえます。

そして私は、曹洞宗を中国から日本に伝えられた、道元禅師様がお釈迦様のトップオタクの一人だと思います。

道元禅師様は、様々な宗派が乱立した鎌倉時代に、改めてお釈迦様という原点に立ち帰り、そのお釈迦様の正しい教えや実践を日本に伝え、それを『正法眼蔵』という書物にまとめて、後代の私たちにお示しになられました。道元禅師様は、お釈迦様の教えに立ち返ったとは何なのか、お釈迦様が実践していた修行とは何なのかということを深く参究し、自分自身の修行によってお釈迦様と向き合った人物なのです。

道元禅師様の教え

そんな道元禅師様の教えを曹洞宗では端的に、このように示されています。

「威儀即仏法・作法是宗旨」(いぎそくぶっぽう・さほうこれしゅうし)

この言葉を端的にお話ししますと、私たちが身につけるお袈裟や衣、普段の生活や仏事、人前での法話の中全てにお釈迦さまが現れており、自分という存在を通してお釈迦様を表しているという事になります。そしてそれはつまり、お釈迦さまのお悟りを表しているという事にもなります。

私はこの教えを、お釈迦さまのトップオタクともいえる道元禅師が、自身の修行により辿り着いた究極の推し活であるように思えるのです。

道元禅師様は、お釈迦様に憧れる、つまり推し活をするだけではなく、自分がお釈迦様になれるように修行をし続けられたのです。

そしてついには、道元禅師様は、志を持ってお釈迦様と同じ修行をする事によって、自分自身が自然と、お釈迦様を映す鏡となれる、もしくはお釈迦様そのものになれることをお示しになられたのです。

父である師匠に言われた言葉

私はかつて、このことを強く実感したある出来事がありました。

それはまだ私が高校生の頃でした。当時の私は夏休み中にお寺の手伝いということで、お盆にお檀家さんのご自宅を周り、お経を上げさせていただいていました。当時の私はまだ修行に行ったこともなく、師匠である父親から言われるがままに手伝いをしていただけであり、今思い返してしてもお経も拙いものでありました。

しかし、そんな私に対してもお檀家の皆様は、私を丁重に出迎えてくださり、私の拙いお経が終われば冷たいお茶と、お菓子を用意してくださり、「お疲れ様です」と私を労ってくださいました。

また驚くことに、とある檀家さんは私がお経をお唱えしている最中、私の後ろからうちわで一生懸命に風を送って下さいました。その方からすれば当時の私は、まだ自分の孫くらいの年齢だったはずですが、暑いお盆の最中に必死に私に対してうちわを使って風を送ってくれていたのです。

まだ学生の身分ということもあり、子供だった私は自分がなぜこんなにもお檀家様から有り難がられて、おもてなしをされるのかが不思議でなりませんでした。

この疑問を私は、父である師匠に率直に問いかけてみました。

すると師匠は、私にこのように言いました。

「誰もお前に対して手を合わせているんじゃない。お前の着ているお袈裟や絡子、衣に対して手を合わせて下さっているんだ」

当時の私は、師匠から言われたこの言葉をよく理解できませんでした。なぜなら、自分の着ているお袈裟や着物に対して手を合わせる人たちの気持ちが全く分からなかったからです。しかしこの時の私は、師匠である父親から叱られているような気がして、それ以上は聞くことができませんでした。

研修中に生まれた慢心

しかし、その数年後、私は曹洞宗総合研究センターという曹洞宗の若手僧侶を養成する機関に入所し、その活動の一環として高齢者施設で法要と法話をする事になりました。当時の私は永平寺での修行が終わったばかりで、お経はお唱えすることができましたが、法話をしたことなど殆どなく、手にたくさん汗を書くほど緊張していました。

当然そんな緊張した私のお話は今思い出しても、恥ずかしいものでした。しかし、利用者の皆様はそんな私の緊張とは裏腹に、拙いお話にも熱心に耳を傾けてくださり、中には涙を流される方もいらっしゃいました。

私はその時に、素直にありがたいと思うと同時に誇らしさと達成感を感じました。

自分の法話は人を感動させ、涙を流してもらうことが出来ると感じてしまったのです。しかし私は、その日の帰り道、だんだんと冷静になっていくと同時にかつて師匠から言われた言葉を思い出しました。

「誰もお前に対して手を合わせているんじゃない。お前の着ているお袈裟や絡子、衣に対して手を合わせて下さっているんだ」

その時私はハッとして、かつて理解できなかったこの言葉の意味を悟りました。

お釈迦様のファンとして

私はあくまでも、お釈迦様や道元禅師様、歴代のお祖師様たちから受け継がれてきた教えを現代に伝える、いわば代弁者の立場です。

そして、私の法話に対して真剣に向けられている眼差しも、感動も全ては私ではなく、僧侶の格好をした私という存在を通した仏様に向けられているのです。

私は今でも時々、普段行っている法話を檀信徒の方々に称賛されたり、認められたりすると、それが自分自身に向けられていると錯覚してしまうことがあります。

しかし、その度にかつての師匠の言葉が、はじめに紹介した「威儀即仏法・作法是宗旨」という教えとともに、私の胸に蘇り、戒めとなっています。

本日のお話のテーマである、「推し」に戻るのならば、私はあくまでお釈迦様のファンの一人であり、お釈迦様と同じような格好をして、お釈迦様が現代に伝えられた教えを学び、実践し、皆さんの前でお話ししているだけにすぎません。

しかし、道元禅師様のようにお釈迦様の真似を一生懸命にする事によって、私がお釈迦様を想うように、私のお話を聞いて感動してくれる人たちも、お釈迦様を想うことによって、お釈迦様のファンを増やしていく、これこそが私の役目のように感じています。

そして、お釈迦様や道元禅師様の教えが現代にも通用するような素晴らしいものと自覚し、それを一生懸命に伝えていく。

もしかすると、私の話し方や、人柄に対しての評価も多少なりともあるのかもしれません。しかしながら私の着ているお袈裟に込められた二千五百年分の思いや願い、信仰や努力など、先人たちによって紡がれた大きな足跡に比べれば、それは余りにも小さなものです。

そんな小さなものを誇り、そこにしがみつくよりももっと大きな存在に気づき感謝をすることが大切なのではないでしょうか。

お釈迦様を推す一人の人間であるということを理解し、お釈迦様や道元禅師様に少しでも近づけるように、修行という名の推し活を続けていく。
そのことを忘れることなく、これからも日々精進していきたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

振り返りと反省

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます🙏

今回の法話はオンライン配信ということで画面越しに、視聴者に向けてお話しするという形でした。
今まであまり経験のない形での法話でしたの、少し戸惑いながらではありましたが、自分なりに伝えたいことを伝えることが出来たのかなと思っております✨

一方で、法話の原稿を手元に置いていたので、時折画面から目を話して原稿を見ているのが目立つ映像となってしまいました😅

原稿に甘えた結果ですが、普段自分がお話ししている姿を客観的に見ることがあまり無いので、今回の経験を糧として今後もお釈迦様のファンとして、精進していきたいと思います!!



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