粟島と粟島芸術家村について
22年の6月から約4カ月、香川県の粟島に滞在して制作を行っていました。
制作の中で、粟島や長年行われているアーティスト・イン・レジデンス「粟島芸術家村」について関係者へのインタビューや資料でリサーチを行い、「粟島芸術家村文庫」という書籍を作りました。
今回の記事では、書籍から抜粋した内容をもとに、滞在していた粟島や、粟島芸術家村の取り組みなどについて紹介します。
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・粟島の概要
香川県三豊市詫間港の北西4.5kmの海上に浮かぶ島。面積3.72km2、周囲16km。3つの小さな島の間に滞留物が堆積して結ばれ、現在のような3枚羽根のスクリューのような形になったと言われる。世帯数は2022年現在100軒を切っており、島に住む島民の数も150人前後とされる。その多くが後期高齢者であり、島に住む子供はいません。
・粟島の歴史
縄文時代から人が住んでいたらしく、石器や土器が出土している。弥生時代には海水から塩を作っていた痕跡があり、横穴式古墳や、円墳など古墳時代の遺跡も残る。
奈良時代には皇室に馬や牛、蘇(現在のチーズのようなもの)を献上するための牧場地に選出され、そのことが馬城・水尻・立髪・尾・牛の州などの牛馬に関係した地名に残っている。(対岸の詫間町も、託す馬に由来するという説あり)万葉集の中にも「粟島」が謳われたものがいくつもあるが、それらがどこの島を指すかはっきりしていない。
瀬戸内海の海賊と関係が深く、島が海上交通の要地に位置するため、通る船を山から見張り、近くの暗礁に追い込んで略奪などを行い、平安時代の藤原純友の乱にも配下として関わったのではと言われている。その後、海賊たちは外洋にまで進出し、倭寇と呼ばれるようになる。
戦国時代、西讃の盟主は雨霧城主の香川信景であった。その時代には粟島の城の山に粟島城があり城主は矢倉弾正と言い、香川氏の武将となり、栗島城は雨霧城の出城の役目をしていた。 長曽我部氏の侵略を受けたとき、城は落ち、弾正は小船で逃げ延び再起を図ろうとしたが、追い詰められ、海上の岩で自決した。その岩は矢倉石と呼ばれている。
江戸時代、海上運送や交通が盛んになり、北海道から大阪へ向かう北前船(きたまえぶね)の寄港地となった粟島は、その海運業に関わることで大変栄えた。寄港や避難には随一の天然の良港として知られ、大船で湾内が一杯になり、対岸が見えないほどだったと言う。海の神様として信仰の厚い金比羅山にも莫大な寄進をした。また、航海の安全を祈った絵馬、「舟絵馬」が伊勢神社をはじめ、島のあちこちに奉納されている。
明治時代、海運に利用する船が和船から、追い風でも進みやすい洋型船に変わっていったり、蒸気船の登場により、船を操縦するには国家試験を受けなければならなくなった。
こうした変化に対応するため、汽船を操縦する船員を育てる村立の海員養成の学校を作ることになり、明治35年(1902年)、地方商船学校の第一号の粟島海員補習学校が誕生した。その後、三豊郡立粟島航海学校、さらに国立粟島商船学校と改称した。
戦後は米軍に海軍関係の学校と誤解されて、教育資材一切を破壊・焼却された後、一旦は廃校となる。跡地利用を各方面に願い出たところ、宮崎海員学校が移転し、粟島にありながら宮崎海員学校となる。その後、粟島海員養成所、粟島海員学校と改名する。当時海運業界は活気があり、入学志望者も多くあったが、1950年代から海運業界に不況が訪れ、海員学校卒業生の就職が難しくなり、入学志望者の減少により、昭和62年(1987年)に廃校となった。
・粟島芸術家村の成り立ちと変遷
2004年、東京藝術大学が地方自治体と連携した「芸術家村構想」を打ち出す。2000年代初めから同大学の教授がワークショップを行なっていた縁で香川県が手を挙げ、小豆島が最初の候補地となる。2009年には、香川県と小豆島町の共同事業として「小豆島アーティスト・イン・レジデンス」が始まり、(2014年からは「三都半島アートプロジェクト」として現在も継続。)2010年には、同様の形式で粟島でも「粟島芸術家村(粟島・アーティスト・イン・レジデンス)」が始まる。
初期の招聘作家は滞在制作が未経験であることも多く、行政や島民も手探りの中での事業だったが、多くの協力を得て以後毎年継続されてゆく。
2013年からは瀬戸内国際芸術祭(瀬戸芸)との連携が始まり、島には瀬戸芸、粟島芸術家村双方の作品が混在するようになる。また、このことをきっかけに島民を中心としたボランティア団体「粟島ぼ~い・がぁ~るの会」が結成される。翌2014年からは三豊市の単独事業となり、瀬戸内国際芸術祭で粟島で展示をしていたことをきっかけに、日比野克彦が「粟島芸術家村 日々の笑学校 校長」となり、総合ディレクターとして事業と連携するようになる。
2014年までは半年に3人づつ年2回、以降は年に2人の作家が毎年来島し、4ヶ月の滞在制作を行う状況が10年以上続いている。その中で島民の芸術家村や作家、作品への愛着も自然に深くなり、一過性ではない関係が生まれている。
2013年の招聘作家の久保田沙耶と島民の中田勝久による「漂流郵便局」、頻繁に自宅へ参加作家を招いて交流を深めていた朝倉夫妻によって2018年に開店した「あわろは食堂」(2017年招聘作家、菊地良太の作品名に由来)、2018・2019年に招聘された大小島真木とマユール・ワイエダの作品を発端にした週に一度のサコッシュ作りの会など、芸術家村がきっかけとなり島に新しくできた施設やコミュニティが、現在も観光やソーシャルキャピタルの点で大きな役割を果している。
2014年より、芸術家村が三豊市の単独事業となることをきっかけに、前年より瀬戸芸作家として島で活動を行っていた日比野克彦を芸術家村のディレクターとして島民が誘致する。日比野は芸術祭で作品として使用する船を探していたところ、当時の三豊市長が仁尾港〜蔦島間を運行する「つたじま丸(作品名:瀬戸内海底探査船美術館プロジェクト
「一昨日丸」)」を紹介したことが縁で粟島に関わることになり、以後粟島が瀬戸芸での展示や活動の拠点となる。
日比野がディレクターになったことで、公募ではなく日比野が推薦する作家が招聘されることになり、ワークショップやコミュニケーション、制作への参加を重視した作家が招聘される傾向になった。その結果、島民が作家の生活面やリサーチだけではなく、制作自体に直接関わり始める。以降、長年招聘作家の制作に関わってきた島民らは、現在では作家が来島すると開口一番「何作るんだ」「何を手伝えば良いんだ」と積極的に声かけすることが当たり前となっている。
その中でも、特に2018・2019年に招聘された大小島真木とマユール・ワイエダの作品「言葉としての洞窟壁画と、鯨が酸素に生まれ変わる物語」は、一つの教室を丸ごと改装し、大掛かりなインスタレーションと壁画をゼロから制作するもので、施工や制作の面で多くの島民や島外ボランティアが関わり、長期間多大な作業を共有して完成された。このことから特に愛着が深い作品となっており、島民自ら自分達の作品でもあると自負する。
展示後の制作物は、それまで倉庫、各家庭や自社仏閣などに保管される傾向にあり、一般へ向けて再公開の機会を得ることは稀であったが、この作品は毎週土曜日の午後に一般公開されるようになった。
また、この時から展示継続のための経費を賄うため、島の女性たちが中心となって、観光客へ向けたお土産のサコッシュ作りを行うようになる。週に一度行われるこの制作ための集まりが、芸術家村への関わりや、島民同士や観光客との交流をささやかに醸成、継続させる役割を担っている。
粟島にはもともと、北前船の寄港地、お遍路さんへのお接待文化、全国から集まった若者を世界へ航海する船員を育てる海員学校などがあった背景から、島外のヒト・モノ・コトの積極的な受け入れが結果的に島の価値につながるという感覚が醸成されており、外部に開かれた島だと内外からよく声が上がる。行政から芸術家村の候補地に推薦されたことも、その環境と無関係ではなく、アートという特殊な分野との関わりに対してもある程度理解があり、寛容であるという認識がなされていたからではないかと言われている。
芸術家村誕生以前から粟島には、廃材の漁具を再利用した200体以上のオブジェが展示された「ブイブイガーデン」、公演回数100回以上を誇る平均年齢80歳の劇団員による「ふる里劇団」、夜の海に光を放つ海洋生物を採集し、観光資源や海洋環境保全啓蒙として魅せる「海ほたるの鑑賞会」など、島民独自の様々な表現・文化が多数花開いてきた。
これは、島という地理的な環境、粟島に住む多くの元外国航路の船員が体験した長期航海での経験など、限られた資源や関係の中で生活しなければならない境遇があり、そのことが「あるもので何とかする」ということを発端にした独自のクリエイティビティを育んだのではないかと推察される。前述したものは顕著な例のみであり、島を少し歩くと、生活の中での創造的な工夫や表現が無数に感じられる。
よって、そもそも粟島には潜在的に育まれ、様々な形で発露していた島民のクリエイティビティがまずあり、それらが近年芸術家村の存在によって、アートというアウトプットを得て表出しているという見方もできる。クリエイティビティの出口として今開いているのがアートなのであって、他分野の切り口においても豊かな創造性が発揮されるポテンシャルを持っているように感じる。
作品制作の取り組みについては、こちらの記事に詳しく記載されています。