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実は巨大軍需工場だった。後楽園周辺の戦争の痕跡を探る。

現在の東京ドーム、小石川後楽園一帯は、明治期には巨大な軍需工場地帯だったというのをご存知でしょうか。

江戸から明治になると、江戸の大名屋敷跡の広大な土地は明治政府に収用され、富国強兵の政策のもとで多くは陸軍の用地となりました。かつて東京にあった軍施設の面積は世界でも類を見ないほどで、まさに東京は首都であると同時に軍都でもありました。

現在の東京ドーム、小石川後楽園、文京区役所、礫川公園、都戦没者霊苑、中央大学を含む広大な一帯は元は水戸徳川家の屋敷跡でした。ここに陸軍砲兵工科学校、東京砲兵工廠が展開されていました。現在の街並みからはなかなか実感が湧きませんが、甲武線(現在の中央線)から神田川を越え水道橋、東京砲兵工廠を望む写真を見ると、当時の情景がかなりイメージできます。

中央線と神田川と東京砲兵工廠

東京砲兵工廠の遺構とその後の戦争にまつわる痕跡を小石川後楽園、東京ドーム一帯に探ります。地下鉄丸の内線後楽園駅を出ると、隣接してすぐに礫川公園があります。ここからスタートして、まずは公園の奥の高台にある東京都戦没者霊苑を目指します。


マップが見えない方(iPhoneのsafariでは警告が出る)はこちらのリンクから。

東京都戦没者霊苑 (礫川公園)

東京都戦没者霊苑には太平洋戦争における東京都の戦没者16万余りの霊が祀られています。

広いエリアですが、おそらくいつ訪れても人が少なく、厳粛な雰囲気も感じます。慰霊碑の他に周囲にはいろいろな碑や説明展示があって見応えがあります。

東京都戦没者霊苑の入口
入口から鎮魂の碑を見る
東京都戦没者霊苑の全景
鎮魂の碑
碑文
顕彰碑
戦没の地モニュメント

この戦没者霊苑の傍、入り口に向かって左側の植栽の中に諸工伝習所陸軍砲兵工科学校後の石碑があります。諸工伝習所とは明治初めこの地に設けられた陸軍の兵器製造技術教育の地で、後に陸軍砲兵工科学校となったとあります。

陸軍砲兵工科学校跡 (礫川公園)

1872年フランス陸軍のルボン大尉が小石川に伝諸工集会所を開設、1896年(明治29年)に陸軍砲兵学校となりました。諸工伝習所跡記念碑の石碑と一体となった陸軍砲兵工科学校跡の碑となっています。中央のモニュメントが何を現しているかは不明です。

陸軍砲兵工科学校跡の碑
陸軍砲兵工科学校跡の碑 (拡大)

この碑の後方、後楽園駅に隣接する藪の中に廃墟のような射撃場跡があります。場所は分かりにくい所にあります。いろいろな方が情報をアップされていますので、これらの情報を参考に探しました。

旧東京砲兵工廠射撃場跡 (礫川公園)

三八式歩兵銃等の小銃の試射試験場跡です。
三八式歩兵銃は日露戦争が終わった1905年(明治38年)に日本陸軍の制式となったボルトアクションの小銃です。世界の軍用小銃でもトップクラスの性能を誇り、そのため第2次大戦が終わるまで日本軍はこの銃一本を頼りに戦ったとあります。映画の日本兵といえば常にこの小銃を持っていて、日本軍の歩兵の象徴みたいになっています。

三八式歩兵銃

下の写真、礫川公園に入ると正面にイタリア・ルネッサンス様式のカスケードが目に入ります。向かって左側に東京都戦没者霊苑に通じる階段があります。この階段の根元に植栽の中に奥に通じる道なき道があります。ここを分け入り坂を登っていくと煉瓦造りの構造物が見えてきます。ここが三八式歩兵銃等の小銃の試射試験場跡です。

正面のイタリア・ルネッサンス様式のカスケード
奥に通じる道なき道
三八式歩兵銃等の小銃の試射試験場跡
三八式歩兵銃等の小銃の試射試験場跡

残念ながら訪れる時期を間違えました。試射試験場跡は金網で近寄れないようになっているのですが、初夏でしたので雑草が生い茂り、金網に絡まったツタの葉が視界を遮ってほとんど見えません。煉瓦造りの壁があるのはなんとか分かるのですが、トンネル部分は恐らくブルーシートで塞がれているようでした。再度、葉が落ちる冬に訪れようと思います。

次に礫川公園を出て東京ドームへ向かいます。東京ドームの敷地内に戦没野球人鎮魂の碑があります。戦死されたプロ野球関係者の鎮魂の碑と中等学校・大学・社会人野球の選手の方々の慰霊モニュメントがあります。

戦没野球人鎮魂の碑 (東京ドーム)

鎮魂の碑は、東京ドーム野球博物館の前、階段を降りた白山通りに面して立っています。「鎮魂の碑」の下に戦没選手73名の氏名が刻されていて、何度かのノーヒットノーランを成し遂げ永久欠番となった背番号14の沢村投手の名前もあります。これも戦争の痕跡です。

戦没野球人鎮魂の碑
戦没野球人鎮魂の碑
戦没野球人鎮魂の碑

さらに東京ドームを右に見て東京ドームホテルを正面に見て進みます。東京砲兵工廠の基礎レンガが展示されています。因みに、東京ドームホテルの設計は「世界のタンゲ」と言われた天才建築家の丹下健三です。

東京ドームホテル

東京砲兵工廠の基礎レンガ (東京ドームホテル)

明治4年(1871年)に建設された旧日本帝国陸軍東京砲兵工廟跡の基礎用レンガ。東京ドームホテルの東京ドーム側の歩道に東京砲兵工廠の土台であった基礎レンガが展示されています。極めて堅牢に作られていたために、ホテル建設の際に地下5mからやっと取り出したものということです。

東京砲兵工廠の基礎レンガ
東京砲兵工廠の基礎レンガ

ここから更に小石川後楽園へ向かいます。
小石川後楽園は、江戸時代初期の1629年(寛永6年)に水戸徳川家初代藩主・徳川頼房が江戸の中屋敷(明暦の大火後に上屋敷となる)に築造し、2代藩主・光圀により完成した庭園です。江戸期において最も早く完成した大名庭園で、日本各地の大名庭園に影響を与えたといわれています。なお、小石川後楽園は有料施設です。

東京工廠跡記念碑 (小石川後楽園)

入り口から近い所に東京砲兵工廠跡記念碑があります。関東大震災によりその工場等施設は打撃を受け、1933年(昭和8年)に九州の小倉に移転しました。工廠が移転した際に陸軍によって昭和10年に建てられた記念碑で、特徴ある碑の形状は敷地の外郭の形状を表していると言います。

東京工廠跡記念碑
東京砲兵工廠の明治の地図
東京工廠跡記念碑 側面
東京工廠跡記念碑 背面

さらに園内奥に進み九八屋を目指します。

弾丸製造機の部品 (小石川後楽園)

九八屋のすぐ横に置いてある円盤状のものが造弾器(弾丸製造機)の一部といわれています。特に説明板もなく、知らなければ通り過ぎてしまいます。

九八屋
造弾器(弾丸製造機)の部品
円盤状のものが造弾器(弾丸製造機)

今ではアミューズメントパークにもなっている賑やかな後楽園にも、かつての軍都東京、そして戦争の痕跡が残っています。江戸の武家屋敷から明治の軍需工場の広大な地域があったからこそ、現代の東京ドーム、ドームシティー、文京区役所、礫川公園、都戦没者霊苑、中央大学があるという推移が改めて認識できる街歩きでした。


この記事は、私の「東京レトロ街歩きガイド&マップ」サイトのエリア別「Ar-15後楽園から小石川を歩く」、更に詳しくはテーマ別「Th-08軍都だった東京の遺構」の一部を基に街歩きをしています。記事の内容以外にもAll in Oneのガイド&マップになっています。こちらもぜひ参照ください。

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