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日比谷公園から霞ヶ関のレトロ建築(近代レトロ建築-02)
丸の内に続いて、今回はレトロ建築を探して日比谷公園と霞ヶ関を歩きました。
誰でも知っているし、一度は足を踏み入れたことがある日比谷公園。江戸以前は日比谷入江と呼ばれる海が広がっていました。神田山の開削で得られた土砂などを使って埋め立てられ大名屋敷が建てられました。現在でも日比谷公園の標高は銀座や霞ヶ関より1mほど低いということです。埋立て後も地盤が弱く、霞ヶ関のような煉瓦造りの近代建築は建ちませんでした。1902年(明治35年)に東京市の公園として開園しました。
マップが見えない方(iPhoneのsafariでは警告が出ます)はこちらのリンクから。
日比谷公園の有楽門から日比谷公園に入る前に、日比谷交差点の角にある交番が目に入ります。何か、普通の交番とは少し違う雰囲気を感じませんか。厳密にはレトロ建築ではないのですが、昭和レトロ感も少し感じる「デザイン交番」という交番です。
丸の内警察署 日比谷公園前交番
設計: 横河健 、1986年(昭和61年)の竣工です。デザイン交番とは1982年東京都「文化のデザイン事業」に基づき、警視庁がその趣旨を反映させて建設した交番。通常は警視庁の技師が設計するところを、外部の建築家に委託して建設したということです。この日比谷公園前交番はなんと1989年に東京建築賞都市計画局長賞を受賞し、建築家横河健の代表作の一つともなっています。
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日比谷公園に入り、そのまま江戸城日比谷見附跡と伊達政宗終焉の地の史跡説明板を横目に見て進むと、山小屋風のレストランがあります。これが日比谷公園事務所だった建物です。
旧・日比谷公園事務所
1910年(明治43年) の竣工の公園事務所は当時としては斬新なドイツ・バンガロー風の造りです。建物の外観変更はわずかで昔の姿をよく保つ明治期の数少ない近代洋風建築です。 設計は東京市の技師、福田重義。
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ここから更に公園の中央へ歩いていきます。レトロ建築ではないのですが、日比谷松本楼の横に首かけイチョウという古木があり、必見ですので見ていきます。
首かけイチョウ
樹齢:400年、高さ:20m、幹周:6.5mの古木です。このイチョウは日比谷見附(現在の日比谷交差点)にあったもので、1901年(明治34年)の道路拡張の際、じゃまになると伐採されようとしたのを、この公園の設計者であった本多静六博士が、「私の首を賭けても移植を」とイチョウを今の場所まで移動させたそうです。それで「首かけイチョウ」と呼ばれています。
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更に公園の奥へ進み、日比谷公会堂を目指します。
日比谷公会堂と市政会館
竣工年:1929年(昭和4年) 設計:佐藤功一。
「市政会館」「日比谷公会堂」は両者が一体となっている珍しい建築。公園側から見ると日比谷公会堂で、反対の道路側から見ると垂直線を強調した近代ゴシック建築の荘重にして優美な姿になって、その差に驚かされます。外装は茶褐色タイル張りを基調とし、要所に石材と黄色テラコッタを配し、公園の景観と調和する高雅な色調と堅牢性の両立に成功しているといいます。
日比谷公会堂は東京では事実上唯一のコンサートホールでした。開場式で新聞を破いた音が全員に聞こえたといいます。1960年の浅沼稲次郎暗殺事件の現場でもあります。現在、閉鎖されて大規模改修工事中。
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ここから霞ヶ関へ歩きます。日比谷公園を見物しながら、斜めに突っ切る近道で桜田門前に一旦戻りました。祝田門からでて、内堀通りを少し歩くとすぐに法曹会館があります。
法曹会館
竣工年:1936年(昭和11年) 設計:藤村朗。
昭和初期に司法界の社交場として建てられた倶楽部建築です。全面に薄いグレーのタイル貼りで、両側に尖塔屋根のある教会を思わせるようなデザインです。
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法曹会館のすぐ隣に法務省旧本館 赤れんが棟が見えています。ここから日本の行政の中枢、霞ヶ関の官庁街になります。
霞ヶ関は江戸時代には大名屋敷が建ち並ぶ地域でした。ここに外務省が置かれたことをきっかけに官庁集中計画が持ち上がり、大手町から内務省と大蔵省が移転するなど、少しずつ中央官庁街の体裁が整い、「霞ヶ関」が日本の中央官庁の代名詞となりました。
この地は米沢藩上杉家江戸藩邸でした。法務省旧本館 赤れんが棟の一角に米沢藩上杉家江戸藩邸跡の碑が残されています。
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法務省旧本館 赤れんが棟
赤れんが棟は1895年(明治28年)の竣工で明治政府の官庁集中計画により建築されました。関東大震災ではほとんど被害を受けませんでしたが,昭和20年の戦災により消失してしまいました。戦後に改修、さらに平成6年に創建時の姿に復原されました。
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赤れんが棟から外務省に向かう途中に、地下鉄霞ヶ関駅のすぐ横に霞ヶ関跡の碑が建っています。
霞が関跡
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「江戸名所図会」という史料の「桜田御門の南、黒田家と浅野家の間の坂をいふ。往古の奥州街道にして、関門のありし地なり。」という記述から、ここだといわれています。実のところ、霞が関は、武蔵国(東京・埼玉・神奈川県)のどこにあったか正確な場所は実は分かっていないようです。
外務省と陸奥宗光公銅像
1960年(昭和35年) の竣工。3つの建物 が口型に配置されているます。道路から柵越しにしか見れません。その柵越しですが、陸奥宗光の銅像が必見です。陸奥宗光は明治維新とともに外国事務局(外務省の前身)御用掛に登用され、駐米公使、農商務大臣を経て伊藤博文内閣の下で外務大臣に就任しました。明治の日本外交で不平等条約改正に尽力しました。
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旧 大蔵省
1939年(昭和14年)の竣工。文部省と同じく大蔵省営繕管財局の設計ですが、戦争下の世情もあり、極めて地味な外観です。
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旧 文部省
1933年(昭和8年)の竣工。霞が関官庁街における震災復興庁舎。2007年の再開発により霞が関コモンゲートの一部として、旧建物が部分的に保存されています。
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旧文部省のビルのすぐ横、地下鉄の虎ノ門駅に通じる地下部分に江戸城外堀跡の石垣の展示室があります。説明板などが整備されていて見応えがあります。
江戸城外堀跡の地下展示室
虎ノ門駅の文部科学省連絡通路内に佐賀藩によって作られた外堀石垣が復元、展示されています。説明板には当時の石積工法や工事について記されています。間近に見る石垣表面には石を割った矢穴や担当した大名家の刻印が見られます。
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また、旧文部省前の虎ノ門交差点の向かい側に虎ノ門記念碑があります。
虎ノ門記念碑
虎ノ門は1636年に佐賀藩によって築かれたとあります。明治6年に撤去されましたが、銀座線の駅名になるなどして「虎ノ門」の名称は使われ続け、戦後に地名としても使われるようになりました。 虎ノ門交差点の片隅に虎の像が乗った碑がありますが、見逃しそうだし重みが感じられないのは私だけでしょうか。
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今回はレトロ建築を主眼にした日比谷公園、霞ヶ関の街歩きでした。ここまで来ると、溜池も近く江戸城外堀の遺構などがありますが、江戸城外堀のテーマで後日、詳しくレポートしたいと思います。
この記事は、私の「東京レトロ街歩きガイド&マップ」サイトのエリア別「Ar-02霞ヶ関から虎ノ門を歩く」のレトロ建築、更に詳しくはテーマ別「Th-07今に残る近代レトロ建築」を基に街歩きをしています。こちらもぜひ参照ください。
またinstagramでも「近代レトロ建築」を発信していますので、訪問してみてください。
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