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全ては等価交換できる真理の扉

少し前にこんなツイートを見た。

「大人になると男女で2人で会うと酒飲むかセックスしかすることない」ようにならないようにするのが教養だと思ってて、教養あるもの同士だと2人で会っても延々と文学や宗教、哲学や思想、政治や文化やらの話をし続けることが出来る。

確かにそうかもしれない。でも僕は少し違和感をおぼえた。と言ってもこの人を批判したいわけでもないし、ただ自分が思ったことを書きたいだけなので晒し上げみたいになっているけど、そういう意図はないということだけ先に書いておく。

昨今、教養!教養!と皆言っていて教養ブームみたいなものがある。またそれに付随して「政治やら、文学だとかの話だとかできる人が凄くて、それ以外の話はダメ」みたいな、変な上下関係みたいなものが見える気がする。後は自然科学の話もそうか。

確かにそれらの高尚なものを身に付けているというのはすごいことだし、頭がいいとも思う。でもそれは一つのアクセサリーでしかないと思う。

例えばそんな高尚な物じゃなくても、サブカル的なもの、例えば漫画にめっちゃ詳しかったり、アニメにめっちゃ詳しかったり、アイドルにめっちゃ詳しかったりする。これもある意味教養のようなものだと僕は感じる。

つまり先ほどのツイートの話に戻ると、別に酒飲んで、セックスして、それが楽しければ別にいいんじゃない?と僕は思うわけだ。この二つだってアクセサリーの一つで選択肢の一つだ。

この世にあるものはすべて等価交換できる。つまり同価値だと思う。そこに主観が入って初めてその人にとっての優劣が出来る。ただそれだけだ。

パチンコが趣味でも、ゲームが趣味でも、酒が趣味でも、読書が趣味でも、そこに上下関係は存在しない。すべてが真理の扉と同じくらいの価値を持つ。きっと人体錬成できるくらいの。

結局のとこ、全ては等価交換できる真理の扉、やりたいことをやればええし、やりたくなければならなくてええ。「何々が出来る」みたいな話は普遍的なものではなく、主観の内側にあるものである。

僕はそう思う

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