喪失と安寧
タイトルだけ勢いで書いたけど、いまいち書く内容が思いつかない。
今日は、エヴァの劇場版を一気に全部アマゾンプライムで見た。そうして、その余韻に今浸っている。
といってもこれで見たのは何度目かの事で、初めてのときと比べるとそう大したものじゃないはずだ。
しかし、感覚というのは上書きされるらしく、もう昔の感覚というのはどこかに喪失している。そうすることで安定するのだ。そう、仕事先のお局さんが「あんた、なんでこんなこともできないの?」というのも感覚の喪失故の言葉に過ぎない。誰だって最初は一筋縄ではいかない。徐々に慣れていき、それに伴い感覚を喪失していくのだ。
エヴァンゲリオンという話は壮大な隣人トラブルのような話だ。少なくとも僕にはそう感じる。エヴァの感想については文章にすると支離滅裂になりそうなので割愛
人間は喪失することで安寧を保っている。何かを創るというのは不安を生み出す行為だ。しかし生物としてその欲求からは抗えない。いくら人間が安定的に生活できるとしても、競争原理の呪縛からは逃れることができない。社会主義が頓挫し、資本主義が加速していくのはその為だ。
資本主義というのは、新たなものを生み出すと度々言われている。技術革新やらイノベーションやらそういう言葉を隠れ蓑にしている。そうアイフォンも一年に一度くらい新しいのが出るように、世の中の様々なものは進化していく。たがその裏で様々なものが喪失していく。いや、それらを捨て去るために新しいものを作っているような気さえさせる。不安を拭い去る為に、新たな不安を作る。物理的には永久機関はありえない。だが形而上的には永久機関はあり得る話だ。そういうサイクルだってある。
エヴァンゲリオンだって同じだ。世界を作り変えるためにエヴァにのり、そしてエヴァを捨てる。
運動の第三法則、作用反作用の法則だってそうだ。ものが前に進むためには後ろ向きのエネルギーが必要になる。インターステラーでクーパーが宇宙船を降りたように。
つまり何かを失うことが前に進むことに繋がる。前に進んでいる限り人は安寧を得る。だが安寧が次に向かう先は不安か破滅だ。ならまた前に進まなければならない。そうしてまた何かを捨てる。さっきから言っている形而上的な永久機関。思弁的なものではない、形而上的なものだ。
結局の所、うだうだと書いてはみたが、まだ頭の中は混乱してる気がする。寝て起きれば、また一日の生活だ。何かを考えるというのは大事なことだが、一日生き抜くというのも大事な事だ。いつ失うともしれない命の精一杯を生きるために喪失も受容していかねばならないな
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